下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。
私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回で31回目になりますが、原稿が長くなってしまったことからなくてもいいようないつもの前置きを省略して早速本題に入ろうと思います。今回の動画では、私が読んだヒンズー教の聖典の一つであるウパニシャドの中の「カタ=ウパニシャド」についてお話ししていこうと思います。その「カタ=ウパニシャド」が書かれている私が動画の題材にしようと思い読んだ本はちくま学芸文庫から出ている岩本裕(ゆたか)さん編訳の「原典訳ウパニシャド」です。
その本の巻末にある編訳者の岩本さんの解説やウィキペディアなどに書かれていることを参考にして説明をするとウパニシャドといわれるものは紀元前7・8世紀頃から紀元後16世紀頃までのインドに興った諸宗教の中で成立した約200以上ある一群の神学書、宗教哲学書の総称とのことです。
それらの多くの宗教書が成立していったインドの歴史的背景には、まず黒い肌の色と黒い縮毛が特徴のドラヴィタ語を話すドラヴィタ人が築いたとされるインダス文明が起こり、その後、紀元前1500年前後頃に現在のパキスタンがあるインド北西部から侵入した白色系で身長と鼻が高いのが特徴のインド・ヨーロッパ語系のアーリア人諸部族が先住民と混血をしながら数百年かけてガンジス川流域へと支配を拡大し隆盛を誇るようになりました。その中でアーリア人の自然崇拝的な多神教信仰からくるヴェーダと呼ばれる一連の宗教文書群が成立していったのではないかと考えられているようです。以前の動画で取り上げたヒンズー教の聖典の一つであるバガヴァット・ギーターに登場するクル族というのはインド・アーリア人の一部族同士であったバラタ族と先住民のプール族が混血したことにより生まれた人たちのようです。はっきりしていないものの気候の寒冷化が移動を始めた原因と考えられているようで、もともと中央アジアにいた牧畜民であり戦闘に長けていたアーリア人諸部族がインド北西部から侵入した後、主に五つの部族が互いに激しい勢力争いを繰り返しながら非アーリア系の先住民たちを武力で征服し吸収し混血しつつインドの支配を東へと広めていったとのことです。この辺りは複数のアーリア系・非アーリア系の部族が多数入り組んでいるので私にはよく分かりませんが、単純に日本に当てはめるならば戦国時代の覇権争いと考えればいいのかなと思いました。なんにせよ、ウィキペディアのインド・アーリア人の欄の中ほどに「バラタ族とプール族とは次第に連携し、連合してクル族という部族を形成した。クル族はさらにパンチャーラ族とも連合して、ガンジス川上流域を制覇した」と書かれています。
以上の、そういったインド北部での支配権を巡っての人種間部族間闘争の歴史が背景にあったうえでインド・アーリア人がインド亜大陸の北西部から拡大を始めた紀元前1500年頃から紀元前1000年頃までを前期、インド・アーリア人の諸部族の中で有力部族としての地位を獲得したバラタ族がガンジス川流域へと移動し広まりだした紀元前1000年頃から紀元前500年頃までを後期に分け、それぞれ前期ヴェーダ時代・後期ヴェーダ時代と呼んでいます。その紀元前1000年頃から紀元前500年頃までの後期ヴェーダ時代の紀元前8世紀あたりからウパニシャドは作られていったのではないかと考えられているようです。そして、成立した年代順に古い時代に属するものを古ウパニシャド、古ウパニシャドより後に成立したものを新ウパニシャドというように分けられて分類されています。
次は、今回お話しする「カタ=ウパニシャド」が載っている「原典訳ウパニシャド」には他にどのようなウパニシャドが記載さているのか、またその成立した時期はいつ頃なのかをお話しします。「原典訳ウパニシャド」に載せられているウパニシャドは古ウパニシャッドに分類されているもので全訳の「カタ=ウパニシャド」を含め全部で五つです。抄訳(しょうやく)の「カウシータキ=ウパニシャド」全訳の「チャーンドーグヤ=ウパニシャド」抄訳の「ブリハッド=アーラヌヤカ=ウパニシャド」全訳の「プラシュナ=ウパニシャド」です。年代としては紀元前600年頃から紀元前300年頃と考えれば大過は犯さないと巻末の解説で編訳者の岩本さんは仰っていますが、その一方で「ブリハッド=アーラヌヤカ=ウパニシャド」と「チャーンドーグヤ=ウパニシャド」は仏教興起よりも古い成立であることは学者の間においてほとんど異論がないとも仰っています。「カタ=ウパニシャド」も紀元前4・5世紀頃よりも古いとされています。そしてウパニシャド文献の最古の部分は紀元前8世紀まで遡ることが出来るものもあるかと思うとも書いています。そうなると紀元前8世紀は紀元前701年から紀元前800年までのことですし、紀元前4世紀は紀元前301年から紀元前400年までを指しますので、今年は2024年ですから岩本さんの説に従えば、この本に書かれている内容は古い部分では最大2824年も前に人間が既に考えていた思想であり、新しい部分でも2325年くらい前の思想と言えるのではないかと思います。
ウィキペディアの英語版で見てみると「カウシータキ=ウパニシャド」は紀元前800年頃のものとする説が書かれていますし、「チャーンドーグヤ=ウパニシャド」では紀元前800年から紀元前600年までのものとする説が書かれています。「ブリハッド=アーラヌヤカ=ウパニシャド」では紀元前900年から紀元前600年までの幅のある説があること示しています。このことから今挙げた三つは仏教が成立する何百年も前に既に成立していた可能性があります。「カタ=ウパニシャド」ついても年代測定が難しいようで一般的には紀元前5世紀から紀元前1世紀の間とされているようです。「プラシュナ=ウパニシャド」は、おそらく紀元前4世紀初頭頃に出現したのではないかとする説があるようです。
要するに諸説様々ではあるものの今から二千数百年以上も前の紀元前に書かれたものであろうというところでは一致しているようです。私などは、この数字を見ただけで、そんな大昔からこんなにも深遠なことを考えていたのかと人間の偉大さを感じてしまいます。いずれにしても。それらの年代は書物として成立した時期の事ですから実際にそういった思想が生まれたのは、その年代よりもさらに遡ることが出来るのではないかと思います。それはいつの事なのか想像することも出来ないほどのはるかなる遠い昔のことと言うことが出来るのではないでしょうか。
ところでウパニシャドという名称の意味なのですが岩本さんによると専門家の間での一致はないそうです。一般的にサンスクリット語の「近くに座る」という語根に由来し、それは弟子が師匠の近くに座り教えが伝授されることからきているのではないかと考えれているようです。それが転じて秘密の教義が書かれた神聖な文献名の総称になったと理解されているそうです。ウィキペディアには一般に奥義書と訳されると書かれています。以上がウパニシャドに関する概説になりますが、まさにウパニシャドには人類の真理を追い求める智の歴史が刻み込まれていると言えるのではないかと思います。
それではようやく、ここから私が今理解している範囲の中で今回取り上げる本の中の「カタ=ウパニシャド」にはどのようなことが書かれているのかをお話ししていこうと思いますが、中身の話しに入る前になぜこの「カタ=ウパニシャド」を取り上げようと思ったかを申し上げますと「原典訳ウパニシャド」に載せられている五つのウパニシャドの中で全訳されているものであるということと全訳されている三つのウパニシャドの中では一番分かりやすいものではないかと思ったからです。書かれていることは簡単に言えば真の自己であるアートマンと真理を悟り解脱することによって得られる人間の本質に関する智識についてです。
では、私の解釈と共に内容の説明を始めますが、お断りしておきたいことが一つあります。私は学者ではありませんので難しい学術的なことは一切分かりません。学問的な解説を期待されても、その期待に応えることは出来ません。私が言えるのは、あくまでも真我の直接体験をした者として理解した中での解釈をお話しするだけのことです。そのことを承知の上でお聞き下さるようお願い申し上げます。
最初にその第1章の冒頭でウパニシャドの学問に優れたウシャトの子の才知あふれるナチケータスが確かな年齢は分かりませんが未だ幼児であるにもかかわらず父親によって死の神ヤマへの生贄にされてしまいヤマが住まう邸宅に到着したところから始まります。これを読んで物語の出だしからウシャトは何てひどい親と感じた人もいるでしょうが、しかしながら、この生贄はナチケータス自身が父親のために望んだことを否定できません。なぜなら第1章の3節と4節にナチケータスが熱望する考えとして次のような事が書かれているからです。
第1章3節「乳を搾られつくし仔を生む力もなくなり、ただ水を飲み。草を食らうだけの牝牛でも、それを喜捨する人の行く諸世界は『歓喜』と名付けられる。」
第1章4節「そこで、彼は父に『父上、あなたは私を誰に贈るのですか』と語った。そして二度、三度、このように訊ねた。父は彼に『死の神に贈るのだ』と語った。」
ナチケータスは、年老いた牛を生贄にして歓喜の世界に行けるなら、なおさら、まだ年若い自分を死の神に捧げ物として差し出せばウパニシャドの学匠として名高い父親は必ず歓喜の世界に行けるのではないかと思い自ら生贄になることを望んだのではないかと思います。つまり、現代日本の価値観には合いませんが当時の価値観としては、ナチケータスは大変な親孝行をしたと言えるのではないかと思います。
ところで3節の「歓喜」の部分は本来は『無歓喜』であったようです。巻末の注釈に『原文アナンダ「無歓喜」では意味をなさないので、アーナンダ「歓喜」に改める。』とあります。どうやら編訳者の方は、喜捨する人の行く諸世界が「無歓喜」なところではいけないと考えたようです。私は、原文が「無歓喜」で間違いないというのなら原文通りに訳すべきだったと思います。既に亡くなられた故人の名誉を傷つけるような真似をしたくはないのですが、これに対してははっきり言わなければならないと思います。かりそめにも原典訳という文言をタイトルに加えるなら聖典を勝手に書き換える行為はあってはならないことだと思います。そこには神の言葉や真理が書かれているからです。聖典に書かれている文言に対する読み手の解釈自体は、いいの悪いの、これはおかしいなど、十人十色で人それぞれあって良いと思います。しかしながら、聖典の内容をみだりに書き換えることはしてはならないと思います。聖典は深遠なものです。無歓喜とあるのは無歓喜としている理由があるからだと思います。それにもかかわらず本来の無歓喜を歓喜にしてしまうと完全に正反対の意味になってしまいます。ですから、もうちょっと慎重に判断してほしかったと思います。
ヨハネの黙示録22章の18節19節に次のようなことが書かれています。
「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」
聖書にこのように厳しいことが書かれているのは、聖書に書かれていることは真理と一体であるが故に神聖であり不可侵なものだからです。これは聖書に限らず他の宗教の経典や聖典にも同じことが言えます。いかなる宗教の聖典であろうと当の執筆者以外の人が勝手に本来の意味を否定することになるような書き換えをしてはいけないと私は思います。いわんや紀元前に書かれたバラモン教徒やヒンズー教徒の方たちが信じ守り続けた聖典を正反対の意味に書き換えるなど私はあってはならない行為ではないかと心底思います。
従って何人であろうとも、いかなる聖典に対してもヨハネの黙示録同様に加筆したり削ったりすることがないように肝に銘じていただきたいと思います。原典訳という以上は原文通りに訳したうえで、私はこう思うと自分なりの解釈を入れるなりなんなりして説明文を付け加えれば良いだけだと思います。
これまで私の動画を見てきた人なら真我の世界、つまり空(くう)の世界がどういうところかおぼろげながらも分かってきているのではないかと思います。死んだ後の世界とは空(くう)の世界のことです。もっと正確に言うならば生まれる前も空(くう)であり、生きている間も空(くう)であり、死んだ後も空(くう)です。空(くう)は生も死も超越しているようで、そのままでも空(くう)と言えます。生も死も空(くう)より生じます。生死は幻想です。私やあなた、他の誰であろうとも空(くう)なのです。人は生まれもしなければ死にもしません。ただ、空(くう)の中で生死という幻想の物語が生じているだけに過ぎません。人は永遠の命として常にあり続ける存在です。そこには元来、生もなければ死もないのです。いつも言っているように、ただ在る存在として在り続けるだけなのです。だから無歓喜なのです。歓喜などというものがあるとする考えは、あくまでもこの世の中の幻想の物語に過ぎません。この世のどこか、或いは、あの世のどこかに喜捨する人の行く諸世界として歓喜の世界があるなどと考えるのは完全な間違いです。喜捨の有無にかかわらず死んだ人は必ず歓喜があるとか無いとかといった概念が一切なく考えることすら出来ない世界に行くことになります。だから無歓喜なのです。ただの空(くう)に戻るだけです。それではつまらないと思う人がいるかもしれませんが、大丈夫です。安心してください。すべての根源として、ただ在る存在として永久(とわ)の命として在り続けることが出来るのですから、これ以上の至福が他にあるでしょうか。そういう意味では、人によっては、それを歓喜と感じるかもしれません。私やあなた、ペットも含め愛する家族、友人知人親族一同、宇宙の中のあらゆる存在は、いかに姿かたちが変わろうとも一見すると死んだように見えようとも火葬され灰になろうとも空(くう)として永遠にあり続けるのです。これこそ本当の幸せと言えるのではないでしょうか。まさしく歓喜と言えます。そこまで分かったうえで編訳者が無歓喜を歓喜と書き換えたのなら、そのように説明書きを付け加えるべきでした。編訳者は既に亡くなられている方ですが、今は永遠の命として、ただの空(くう)として在り続けていることでしょう。
話しを本筋に戻します。ところで生贄にされたナチケータスですが、死の神の邸宅に到着はしたものの、あいにく死の神ヤマは不在でナチケータスは三夜ほどヤマに会うことが出来ず待たされることになります。紀元前の司祭階級であるバラモンは相当な特権階級のようで死の神でさえもバラモンによる怒りと呪いは恐れるようです。三日間も何のもてなしもせずに待たせてしまったナチケータスの怒りを買い呪われないようにするために死の神ヤマは償いとしてナチケータスに恩典を与え三つの望みを叶えることを申し出ます。
そこでナチケータスが一番目に望んだ恩典は何かというと、喜んで迎えてくれる父親のもとに生き返って帰ることでした。二番目は飢えも渇きもなく不死となれる天国に行くための火の儀式についての説明を受けることでした。三番目は人の死後についてです。死んだあと人はどうなるのか。死後も人は存在しているのか、それとも存在しなくなるのかという疑問に死の神ヤマが答えることを望みました。
一番目と二番目の望みは人間らしく分かりやすい願いです。あの世で死の神に対面することになった人間なら誰でも叶えられるのなら叶えてほしい願いと言えるのではないでしょうか。三番目については少し首をかしげたくなる願いです。なぜなら文中には生贄にされた際の経過の詳細が書かれていないので推測するしかないのですが、ナチケータスは父親によって生贄にされて多分すでに死んでいるからこそ死の神に会うことが出来た訳なのでしょうから、死者として既に存在しているナチケータスが死んだ後の存在の有無を尋ねるのもおかしな話しです。多分、死んで不安に駆られて今後におけるあの世での行く末を心配しての質問だったのではないかと思います。ところが、それに対するヤマの話す内容は広く一般に知られている通俗的なものではありませんでした。三途の川を渡った後、生前の行いで地獄か極楽かに振り分けられるという単純な話しではありません。もっと深い本質的で根源的な宇宙の根本原理をヤマは語り始めるのです。このカタ・ウパニシャドに登場する死の神ヤマには地獄の閻魔大王といった広く日本で知れ渡っている世俗的な仏教的要素があまり感じられません。この事からも物語の起源は相当古いと思いました。
さて、ナチケータスの三つの望みを聞いた死の神ですが、一番目と二番目の願いについては難なく叶えることにします。しかしながら、三番目の願いについては神々でさえも疑問を抱いたことであり理解するのは難しいこととして最初は拒絶し、その代わりのものとして富や長寿、天界の美女といった欲望の限りを望むように求め、死については訊ねてはならぬと突っぱねます。これを聞いたナチケータスは、まだ年若いにもかかわらず老成し達観したのような物言いで次のように返します。人は富や長寿、性愛の喜びで満足することはなく、まして死の神が支配する限り長寿を得てもいずれは死ぬことから、それらのものは一時的なものではかなく、むしろ欲望への囚われは体を消耗させ寿命を縮めることになると言い切ります。さらに驚くことにナチケータスは潔(いさぎよ)く、一番目と二番目の恩典を断り、この三番目の恩典だけを望みます。
この見事な高論卓説に感嘆した死の神ヤマはナチケータスの識見ならば人知の及ばぬ奥義でさえも理解できると判断したのか本当の意味での人の賢愚の差がどこにあるのかを説き出します。
第2章1節「一方に精神的な幸福があり、他方に肉体的な快楽がある。両者は目的を異にするが人間を束縛する。それらの中で精神的な幸福を取る者は善いことであり、肉体的な快楽を選ぶ者は人生の目的を失う。」
第2章2節「精神的な幸福と肉体的な快楽とは、いずれも人間に近づく。賢者は両者を審(つまび)らかに吟味して両者の差別を判断する。実に賢人は肉体的快楽よりも精神的な幸福を選び、愚者は心の平安よりも肉体的な快楽を選ぶ。」
死の神ヤマは愛欲と物欲を拒絶し智識を選んだナチケータスを称賛し愛児と呼んで、更に続けて賢者と愚者の違いを語ります。
第2章5節「無智の中に生活をして、自ら賢者をもって任じ学識ありと考える愚者は、あたかも盲人に道案内される盲人さながらに、あちらこちらを走りまわるのだ。」
第2章6節「財産の妄想に取り憑かれて派手に振る舞う放埓な愚か者には、大変遷(死)は理解されない。『この世界のみあって、かの世界なし』と考えて、そのような男は再三わが支配下に入る。」
第2章7章「多くの人々にとって聴くことさえ不可能なもの、たとい聴いたとしても多くの人々の知りえないもの、それを語る人はまれであり、それを得る人はまことに賢者である。賢者に教えられて、それを知る人、またまれである。」
死の神ヤマは賢者になるための資格がある者として、愛欲の満足や人が熱望する華やかなもの、宗教的儀礼をすることで得ようと望むご利益、憂えのない天国への道、世俗の人を魅了する魅力的なものすべてを放棄した者としてナチケータスを承認します。
さらに、死の神ヤマは賢者の心の持ちようも説きます。
第2章12節「暗闇に入り込んでひそかに隠れ、太古以来深淵にひそんで姿の見がたい者を、賢者は自我に関する心の統一を達成することによって、神と認め喜びと悲しみの二者を捨てる。」
死の神ヤマは、これらの事が出来るナチケータスこそ至高の存在であるブラフマンとアートマンを知るに値する賢者に相応しい者として容認します。
しかし、ナチケータスは自分を高く評価し称賛してくれるヤマの言葉に少しも浮かれたところを見せることなく次のように死の神に懇願します。
第2章14節「正義とも異なり、不正とも異なり、為されたこと、為されないこととも異なり、また過去とも未来とも異なると、あなたが見るもの、それを語っていただきたい。」
ナチケータスは相対を超越する宇宙の根本原理についての教えをヤマに求めます。
ヤマは、それに呼応するかの如く答えます。
第2章17節「それは最も勝れた支柱であり、それは最高の支柱である。この支柱を知るとき、人はブラフマンの世界において栄光を享受する。」
第2章18節「この知者は生まれることなく、また死ぬことなし。彼はいずこより来ることなく、如何なるものにもなることはない。この古昔(こせき)以来のものは生まれず、無窮で永遠である。たとい肉身は殺されても殺されることはない。」
カタ・ウパニシャドは万古(ばんこ)の歴史を持つ聖典です。当たり前ですが、まさに、このカタ・ウパニシャドは真理の塊です。全編一言一句見落とすことは出来ません。21ページほどの短い文章ですが二千数百年以上の長い歴史の中を耐え抜いてきただけのことはあります。短い文章であるからこそ真理の真髄がぎっしりと凝縮して詰まっていると言えるのではないでしょうか。
おおむね頭のいい人は悟りについても思量をつくせば理解が可能と考えているのではないかと思います。しかし、それは大間違いです。考えて得られる知識なら今頃世界のほとんどの人が悟りを得ているはずです。そうなっていないということは考えてどうにかできる代物ではないという証拠です。私は過去動画でも言ったと思いますが、その頭で理解しようとする考え自体を捨てる必要があるのです。悟るために必要なことは知識や知力ではないからです。知識だけならコンピューターはとうの昔に悟っています。思惟することが大切なら偉大な哲学者や科学者も同様に悟っていいはずです。昨今はAIが進歩していますから知識と思惟の両方が出来るAIならば遅かれ早かれAIが悟りを得ることになるだろうと思う人もいるかもしれません。しかし、それも無理というものです。 なぜなら無でありながら、何かがそこに「ある」という始原まで遡らなければいけないからです。今のところ私は近現代の哲学者や科学者の中から空(くう)を悟った人が現れたという話しを聞いたことがありませんし、AIコンピューターが悟った話しも聞いたことがありません。そういう話しが出ていない以上、やはり方向性が違うのは明白です。加えて、何か特定の経典や聖典だけを読んでいれば良いというような思い込みも捨てなければなりません。この経典やこの聖典だけが正しいと言って分別を持つことさえも障害になることを理解することが大切です。
誤解を恐れずあえて誰にでも分かりやすく説明するならば、悟りとは人ではないものになることです。人ではないものになった後で人として戻ってきて、自分は人ではないものであったことを知ることです。悟りの方向性は意識の根源に向かうことです。あくまでも譬えですが何億年という生命の進化の中で発展させてきた脳の機能の拡大を逆にたどるようなものと考えれば分かるのではないでしょうか。脳の機能の中で一番原始的な部分に帰っていくようなものだと思えばいいのではないかと思います。最終的には悟りとは何も考えることの出来ない、ただ在る存在に戻ることだと思います。それが神です。創造の根源です。お釈迦様やイエス様をはじめとする聖者たちはその根源に帰っていきたどり着いた人たちではないかと私は思います。お釈迦様は特に神を説くことはなかったようですが、それは神という概念が究極の悟りの世界では認識することが出来ないからです。およそ人が考えつくようなものは何もありません。自らを顧みることがないので自分自身にさえも気づいていません。究極の悟りとは自らが空(くう)として在ることです。そこでは、ただ在ることしかできないのです。
ヤマは続けて説きます。
第2章22節「アートマンは肉身の中にあって肉身がなく、不安定なものの中にあって安定しており、偉大であまねく滲透 (しんとう)していると考えて賢者は悲しまない。」
第2章23節「このアートマンは解説によって理解されることはなく、天分によっても、はたまた多方面における学殖によっても得られない。それは、それを選ぶ人のみに得られ、その人だけにかのアートマンは自己の姿を現す。」
アートマンは至高の存在であるブラフマンが個々の個我として現れ出たものを指して言いますが、ブラフマンもアートマンも基本的にイコールと考えて差し支えないと思います。なぜなら内も外も真我の現れだからです。その真理としてのブラフマンやアートマンに達するための手法として、既に二千数百年以上も前に求道者たちの絶え間ない精進によって頭で理解しようとする方向性の間違いは指摘され答えは確定しています。一方、現代の最先端の科学者たちは様々な測定器を駆使して宇宙の諸現象を説明する新たな理論を次々に構築し宇宙の始まりを解明しようとしています。しかしながら、それは宇宙の諸現象を説明する上では有効かもしれませんが、その諸現象が生じた大本の存在の説明にはなっていません。あくまでも計測できる諸現象を説明しているに過ぎないのです。どこまで行っても計測の範囲を超えることはないと言えるのではないでしょうか。悟りとは数値化できないものや理論化できないもの、計算出来ないものや機械で計測できないものを直接知ることなのです。
様々な知識を学ぶこと自体悪いことではありません。知識は必要です。悟った内容を第三者に伝える必要が生じた時に的確に表現する知識がなければ何も伝えることが出来ませんし、自分自身悟ったことを言語化できればより理解を深めることが出来ます。ですから仏教やキリスト教、ヒンズー教といった古い宗教の聖典や、それと比べて時代は新しくとも実際に悟ったと言われるインドの聖者をはじめとする人たちについて書かれた本を読むのはとても有意義だと思います。それはまた単に知識を得るためだけでなく、それらの聖なる本を読むという行為は気づきを得る手段としても大変有用であると私は思っています。なぜなら、私に二度の大きな気づきを与えてくれるきっかえを与えてくれた本は現代の悟り系のスピリチュアル本だったからです。その悟り系のスピリチュアル本の読書中に「私は無い」という気づきや自分の中にある神の目の存在に気づいたのです。
ウィキペディアのキリスト教神秘主義の欄のところには人間が神、イエス・キリスト、聖霊を直接経験するための伝統的実践方法の一つとして聖なる読書があることが書かれています。ですから私は自分の体験を踏まえたうえで真理が書かれているのであれば宗教の違いに一切こだわることなく各宗教の聖典や悟り系のスピリチュアル本を紹介し、それを読むことを奨励しているのです。
話しをカタ・ウパニシャドの方に戻します。
第2章24節「悪い行為を止めない者、心の平静でない者、心の統一していない者、あるいはまた意志の穏健でない者は、単に理智だけでは彼に到達しえない。」
私が思うに悪い行為とはまさに頭だけで理解しようとする考えそのものです。物事を論理的に考えて判断する能力は当然大切ですが、それに囚われて真理を概念的に体系的な知識として理解し、例えば数理的に計算式が成り立つなどと考えているのであれば見当違いも甚だしいとしか言いようがありません。 真我は善悪が生じる前の状態です。私やあなた、あそこやここといった彼我の差を認識する前の状態です。理性や知性、本能や感情、物質や精神、人間の存在そのものも含めた、およそ人が頭で考えられるもの、体で感じられるものが生じる前の非存在としての存在なのです。人間が普通に考える常識的な考えとは逆なのです。完全に真逆なのです。非実在と思っているそれこそが実在であり、実在と思っているこの世こそが非実在なのです。従って、それを直接体験したいと思うのであれば、人智を超えたものとしての存在を素直に認め、それを信じ自分の全てを神仏に明け渡す心も同時に必要になってくるのです。私が動画内でいつも言っているように、私は神の奴隷であり、神の操り人形であり、プログラム通りにしか動かないロボットであるという認識を心の奥底から持たなければなりません。誰かの言いなりになりなさいと言っているわけではありません。人が人を支配することなど不可能です。そうではなくて神仏に全てを任せる絶対的受動性の必要性を言っているのです。この考えは神の摂理を理解する上では必須なのです。私の考えとは少し違うのですが理解の一助にしてもらうために、この絶対的受動性についてはウィキペディアの神秘主義の欄のなかほどにある神秘的合一というところを一読されてみることをお勧めします。
本の方に話しを戻します。次に死の神ヤマは譬えを用いてナチケータスに真理を伝えようとします。
第3章3節「アートマンは車に乗る者であり、肉身は実に車であると知れ。理性は御者であり、そして意志はまさに手綱であると知れ。」
第3章4節「諸々の感官を人々は馬と呼び、感官の対照を馬に関して馬場と呼ぶ。アートマンと感官と意志との結合を享受者と、賢者は呼ぶ。」
第3章7節「分別なく無思慮で常に不浄である者は、かの場処に達することなく、しかも輪廻に赴く。」
第3章8節「しかし、分別を持ち思慮あって常に清浄である者は、かの場処に達し、そこから再び生まれることはない。」
第3章9節「分別のある御者を持ち、心を手綱とする人は行路の目的地に達する。それはヴィシュヌ神の最高の住居である。」
私たちの体を使って現象世界を経験している存在が真我であるアートマンです。アートマンは、この世の中のありとあらゆる全ての中に存在しています。アートマンにとっては体はただの道具です。この道具である体に一体化することにより、つまり体を自分だと思い込むことによって思考と感覚と感情までも一緒に体験できる予めプログラムされた人生という体感型シュミレーションゲームを楽しんでいるのです。だから、もし、この動画を観ているあなたが本当に真我の直接体験を望むのであるならば、すなわち、この世はただの幻想であることを見破りたいと望むのであれば、それ以上ゲームの世界に巻き込まれるのを防ぐためにも理性をもって欲望を制御し、ぶれることなく悟りを一心に念じて思慮深く心身を清らかに保ちながら熱意をもって求道しなければいけないのです。それは苦しいことかもしれませんが、そうすることにより、その人が、そうなる運命であるのなら、いずれ解脱の境地に達することになります。しかしながら、誰がそうなる運命なのか、そうなる運命だとしても、いつどこでどうやってそうなるのか、こればかりは神のみぞ知るということになります。ですから道を求める者は、ただ無心に専心するのみということになります。
第3章12節「かのアートマンはこの世に存在する一切のものの中に隠れひそみ。姿を現すことはない。しかし明敏な観察者たちによって、鋭く明敏な理性により観察される。」
この場合の理性とは、この世に執着しようとする自我こそが真理への到達の障害と判断し、自我に囚われないように自我を制御し縮小化させようと冷静に対処しようとする心の働きのことではないかと思います。
ヤマが死の神として冥府の王として君臨しているのは伊達ではありません。人類の始祖としてはじめて死んだ人間として悟りの精髄を心得ているからです。地獄の閻魔大王様は悟り人だったのではないかと思います。そのヤマがナチケータスに奮起を促します。
第3章13節「理智ある人は語(ことば)と意志とを制御せよ。それを智識として自我の中に保て。智識を偉大なる自我の中において制御せよ。それを平静なる心情として自我の中に保持せよ。」
第3章14節「立ち上げれ、目覚めよ。恩典を得て、覚(さと)れ。剃刀の鋭い刃は渡ることが困難である。詩人たちはそれを行路の難所という。」
悟りを得る過程において一朝一夕にいかないことは多々あります。むしろ簡単にいくようなことはないと言えます。まさに剃刀の刃の上を歩くようなものだと思います。下手をすれば精神的にも肉体的にも障害されるおそれがあります。しかし悟りを得た際の果報には計り知れないものがあります。多分、あなたは死を恐れなくなるはずです。むしろ、死の到来を喜ぶはずです。なぜなら、生は幻であることを知ると同時に生よりも素晴らしいものがあることを身をもって知ることになるからです。しかし、ここで勘違いをしてはいけないことは覚者が積極的に死を望むという訳ではないということです。例えば大病を患い何の治療も受けないということはありません。これから津波が来ることが分かっていて避難をしないということはありません。必要な治療や避難を拒むことはありません。今出来るやるべきことをやったうえで、それでも避けられない死ならば、それは運命として決められた死ぬ時期が到来したとして、その死を覚悟して受け入れるということです。ただ覚者は自分が死んだ先の行くべき場所を知っているので悲観して慌てふためくことはなく、むしろ希望を持って死に臨むことが出来るということなのです。
第3章15節「声なく、触感もなく、姿もなく、変化することもなく、また永遠に味なく、それはまた匂いもない。始めも終わりもなく、偉大なるものよりも上にあって、動かないもの、それを観想して、死の神の口より解放される。」
第3章17節「この最高の秘密の教理を婆羅門の集まりにおいて、或いは祖先祭の際に専心して説く者があれば、その人にとって、それはその人を永遠の生命を受けるにふさわしい者とする。それは永遠の生命に値する者となる。」
真我の直接体験で知ることは人の本質は死なないということです。人に限らず全ての存在は生きていようと死んでいようと永遠の命として今も在り続けています。未来永劫に永遠の空(くう)としてあり続けています。現代日本の社会において婆羅門といわれる祭祀階級を何かにあてはめようとするならば僧侶や神職、神父や牧師ということになるのでしょう。祖先祭については日本人は様々な形で昔からご先祖様をお祀りしてきていることから、お正月、お盆、お彼岸などが当てはまるのではないかと思います。私は聖職者ではないので差し出がましく何かの集まりで悟りの話しをしようとは全く思いません。しいて言うならユーチューブがその代わりといったところでしょうか。しかしながら必ずしも、どこかで悟ったことを言わなければ永遠の命が得られないという訳ではないと思います。真我に至れば必然的にすべての存在が真我の現われとして顕現していることが分かることから、自分の体も、その一部として現象世界は一体として分かつことが出来ないただの映像であることが理解されるようになります。だから全ての生きとし生けるものは人間であろうと蟻であろうと蚊であろうとダニ一匹であろうと命の重さという点では平等であることが分かるのです。空(くう)を知り、自分の体も含めて見えている世界の全ては一つのものとして分かつことが出来ないただの映像であることが把握されるようになることで、自分の本質は目を通して見えている現象世界の中の体でもなければ、体の中で感じている感覚や感情、思考でもないということが分かるようになるのです。だからこそ、人であろうとなかろうと生きとし生けるものの一切とそこら辺の石ころ一つであろうとそれ以外の何であろうと、それらすべての価値は真我の視点で見れば全く同じであり貴賤上下などあろうはずもなく、尚かつ、それと併せて私たち全てはうつろい変わる物質的なものでは決してない永遠の命であるという教えを聴衆の前で説く人がもしいたとするならば、その人は既に分かっていることを話すのであり、加えて、それについての確信もあることから、故にその人は永遠の生命に値する者であると死の神は言っているのではないかと思います。
次も大切です。
第4章1節「創造者は孔(あな)を外側にあけた。従って、人は外を見るが内部にあるアートマンに眼を向けることはない。ある賢者は不死をもとめて反対側を向いた眼でアートマンを振りかえって観察する。」
第4章2節「愚かな者たちは諸々の外的な快楽のあとを追う。彼らは死の神が拡げた鎖にひっかかる。かくて、賢者は不死を知り、この世においては非実在のものの中に現実のものをもとめない。」
賢明な視聴者諸氏なら既にお分かりのはずです。創造者が外側にあけた孔(あな)とは顔についている両目のことです。人はそこを通して見えている動画に心を奪われ熱中します。これは、まさに旧約聖書の創世記1章3節に書かれている創造主が「光あれ」という言葉と共に天地を創造されたことに通じると私は考えています。これは私たちが毎日眠りから目覚めるたびに天地が創造されていることを描写しているのではないかと思います。私たち一人ひとりが毎日それぞれの宇宙を創造していると言えるのではないかと思います。しかしながら真実は、宇宙を創造し、それを鑑賞しているのは唯一の実在である真我のみです。つまり、真我の視点に立てば今この地球上には80億人分の並行宇宙があると言えるのではないでしょうか。
人はあまりにもスクリーンに映っている幻影に魅了され本物だと思い込み虜になっていることから、それを映し出している映写機に気づいていません。後ろを振り向けば簡単に光源や映写機があることに気づくはずなのに後ろを振り返ることが出来ることにさえ気づかないのです。世界に古くからある宗教の核心部分は譬え話や物語を通して後ろを振り向いて真理の方に眼を向けることの大切さを示そうとしているのではないかと思います。断じて宗教間で対立することを教えているわけではないのです。違いにばかり目が行く人は真理に眼を向けようとしない愚者としか言いようがありません。そういった愚者が違いを強調し争いを引き起こしているのではないかと思います。
第4章9節「そして太陽が昇るところ、また太陽が沈んでいくところ、それに一切の神々は依存する。また、それを越えていく者は誰もいない。それこそ実にそれである。」
私たち人間も含めてですが、この世の全ての神といわれるものは、その唯一の実在の中にあります。神といわれる概念は、それなくして存在しないからです。概念である神は概念を超えたものの中から生まれ、ありとあらゆる概念の存在しないものの中にあるのです。
死の神ヤマはアートマンとはいかなるものかをナチケータスに説いたのち呼びかけます。
第4章15節「清浄なものに注がれた清浄な水のように、それは清浄のままでいるのだ。このように真の理解を持つ聖仙のアートマンもそうである。ガウタマ仙の息子よ。」
ナチケータスは、その呼びかけに応じるように答えます。
第5章4節「この肉身を持つ者の中に住して肉体を有する者が分散するとき、すなわち肉体から離されるとき、そこに何が残るのであろうか。それこそ実にそれである。」
ナチケータスはやはりとても優秀な少年です。一を聞いて十を知るとはナチケータスのためにある言葉です。人々の生死を超えた先にある真の実在のそれについて理解をしたのではないかと思います。
さらに死の神ヤマは、ブラフマンについても話し始めます。
第5章8節「人々が睡眠している間も眼を覚ましており、欲するがままに姿をあらわすプルシャは、それこそ光であり、ブラフマンであり、それこそ不死といわれる。一切の世間はそれを拠りどころとし、しかもそれを越えるものは全くない。」
プルシャとは巻末の訳注では生気と書かれていますが純粋精神とか真我と解釈した方が理解しやすいと思います。私もそのように理解していますが、人それぞれ理解しやすい方を採用すればよいと思います。
第5章10節「一つの風は生類の中に入って気息となり、生類の形に応じて、それぞれに相応しいものとなった。それと同様に一切のこの世に存在するものに内在するアートマンは一つであるが、それらの中に入って、それぞれの形に応じて相応しいものとなり、しかもそれらの外にあるのだ。」
第5章13節「恒常のものの中でも恒常であり、智性ある者の中でも智性があり、彼は多数の者の欲望を満たせる唯一者である。賢者たちはそれが自身の中にあると観じて、彼ら自らの永遠の寂静を享受するが、他の者たちにとってはそうではない。」
第6章2節「そして、この一切の世界は生気(プラーナ)の中に胎動して生じた。この大きな危険・振り上げられたヴァジラ(稲妻)を知る者たちは不死となる。」
至高の存在であるブラフマンが至高の存在たるゆえんは、それが唯一無二の存在だからです。ブラフマン以外にブラフマンなし。全ての存在はブラフマンによって存立しているのです。アートマンこそが唯一の至高の存在であるブラフマンなのです。そのアートマンから沸き起こる息吹とも言える人生という事象に対する切望があるが故に現象世界は維持されているのです。その切望こそが私やあなたの人生を良くも悪くも展開させている原動力なのです。その原動力は存在性から生じているものでもあります。
もし、これを視聴しているあなたが一瞬でも悟りを得ることが出来るのであれば、まさに悟りは一瞬で起こりますが、その悟りを得ることが出来れば生きている間に不死となったも同然です。死後に肉体を得ることを確約されたようなものです。今言ったことは比喩ですが、それくらいの意味があるのです。なぜなら、真我は不滅であり、その真我が真の自己であることを知ることになるからです。表現を変えるならば、この世を映し出す純粋意識は何物にも左右されることのない不動の意識です。この世は純粋意識の中で移ろい変わる現象として生じているに過ぎません。人それぞれ探究の仕方は様々であろうとも、その事を自覚できるようになるのであれば、つまり悟ることが出来るのであれば、もはや死を恐れることはなくなります。この世での自他に起こる生老病死に伴う悲喜憂苦をただの映画として捉えることが出来るようになるのです。
第6章11節「感官を動かさず静止させることがヨーガであると彼らは理解する。その時、人は心を集中しうる。ヨーガとは実に起源であり、没入である。」
ここに簡潔に悟りを得るためには人はどのような状態になる必要があるのかが書かれています。欲望に囚われ感覚器官を満足させることばかりに心が向かないようにしなければなりません。巻末の訳注にヨーガとは心の動揺の制御と書かれています。この場合の心とは自我のことです。自我を抑制し制御し最大限縮小化させ最後には一時的にでも消滅させる必要があります。真我の直接体験をするためには自我をおとなしくさせる以外に方法がないのです。
カタ・ウパニシャドはウパニシャドの中では短い方ではありますが、それを自らの体験に基づいて説明しようとすると長尺動画になってしまいます。しかし、いよいよ終盤です。ここで真理の本当の姿が明かされることになります。
第6章12節「それは言葉によっても意志によっても、また眼によっても得ることは出来ない。『それは存在する』ということ以外に、どうしてそれが理解できよう。」
第6章13節「『それは存在する』という言葉だけで、それは理解されるのであり、また二者の真の本質によって理解されるのだ。『それは存在する』という言葉だけで得られたとき、その真の本質は明らかにされるのだ。」
第6章14節「彼の心に拠るあらゆる欲望が解き放たれるとき、かくて人間は不死となり、彼はみずからの肉体にブラフマンを得るのだ。」
第6章15節「この世において心の結び目がすべてほどかれるとき、かくて人間は不死となる。わが教えは以上のとおりである。」
13節の二者とは訳注ではブラフマンとアートマンのことであると書かれています。ブラフマンとアートマンについてはイコールと考えて差し支えないと前述しました。どちらも真の自己である真我のことであるので、あえて別々のものと考える必要はないと思います。さらに両者は空(くう)であると理解して問題ありません。そして、それは「ただ在る存在」としか言いようがないものです。それ以上でも、それ以下でもありません。何かを付け加える必要はありません。それを真我と呼ぼうと空(くう)と呼ぼうと、はたまたブラフマンやアートマンと呼ぼうと、私が時々使う純粋な気づきと呼ぼうと、多少の表現の違いはあるにせよ、その本質は「在る」なのです。キリスト教などの一神教の宗教ではそれを神と呼んだりします。呼称は何であろうと、それを直接に知ることが最高の悟りであり、かつ精神的な認識上の不死を得る方法なのです。なぜなら自分の本質が、その不滅の「在る」であることを理解するからです。自分自身がそれであることを直に知るのです。故に肉体の生死に囚われがなくなり、死に対する恐れがなくなるのです。繰り返しますが、私やあなた誰であろうと自分自身がそれなのです。ナチケータスのように、はたまたお釈迦様やイエス様のようにそれを知る可能性は誰にでも十分あるのです。お分かりいただけたでしょうか。
カタ・ウパニシャドは誰であろうとも心底純粋に求道する者ならば悟りを得られる可能性があることを、それを読む人に教えようとしているのです。
第6章18節「死の神より教えられて、ナチケータスは、この知識とヨーガに関するすべての方法を得て、彼はブラフマンを獲て情欲を離れ不死となった。他の人もまたこのようにすれば最高のアートマンをこそ知る。」
以上のことから既に二千数百年以上も前にこの世の真理を得るための有用な方法は既に発見され確立されています。それが一般的に言われている悟りです。人間は真理を知りたいと願う一方、なんと多くの人は遠回りなことを何千年も繰り返しているのでしょうか。確かに悟るための修行は厳しく険しいものですが、これだけ教育水準が上がり悟りに関する書物を誰もが容易に入手できるようになっている現代なのですから、あと足りないのは悟りの修行に真剣に取り組もうという気持ちだけです。悟りというものについて絵空事のように考えるのではなく、実際にこの世の真理を知る方法として現実性のあることとして人々が認識し、多くの人々の関心や興味が外側の世界のことだけではなく誰もが内側に秘めている真理に向かうようになれば相当な数の人たちが悟りを得られるようになるのではないかと私は思います。科学の最先端にいる人こそ悟るための修行に取り組んでみてはどうでしょうかと言いたいですし、その修行の方法として数千年の歴史を持つ大昔からある伝統的な宗教の力を大いに活用することを提言したいと思います。悟りを目指すのであるならば、やはり歴史の重みを軽視するようなことは絶対にしてはいけないと思います。長い歴史と伝統には様々なノウハウの積み重ねもあるでしょうから、色々な意味での安心や安全面での担保が得られるのではないかと思います。実際に真理を知る手掛かりは昔からある宗教の中にこそ既にあることを少しでも多くの人に気付いてほしいと思います。だからこそ私は仏教やヒンズー教、キリスト教の聖典や聖書の中の真理が書かれている箇所について話しをするのです。
ところで、それにしてもナチケータスの理解の速さは尋常ではありません。死の神ヤマの話しを聞いただけで理解ができるのはやはり父親がヴェーダの賢者としてウィキペディアにも名前が載っている紀元前8世紀頃の人物とされ有史以来最初の哲学者の一人としてヒンドゥー教で尊敬されるウッダーラカ・アルニ仙だからなのでしょう。幼いころから父親の教えを間近で学んできたナチケータスだからこそ出来る芸当なのだと思いました。
カタ・ウパニシャドの成立時期は動画の最初の方で紀元前4・5世紀より古いとか、一般的には紀元前5世紀から紀元前1世紀の間とされているという諸説があることを申し上げました。物語の登場人物である死の神ヤマは人類の始祖ですから、その生没年月日は不明としか言いようがありませんが、物語の冒頭に出てくるナチケータスの父親のウッダーラカ・アルニ仙は先ほど申し上げた通り紀元前8世紀頃の人物とされています。このことから書物の成立時期と登場人物が生きた時代との間には数百年以上の開きがあることが分かります。推測するに、その当時、昔から言い伝えられてきた伝説的な話しを誰かが書物としてまとめたということなのか、それとも過去に生きた偉人の名前を借りて聖者が悟った真理を残そうと思ったことから生まれた物語なのか、この書物が実際にどのような経緯で作られたのかは分かりませんが、いずれにしても、その書かれている真理は本物です。
そうは言っても、私が動画を使っていくら本物ですと力説したところで、真我の直接体験を経験したことのない人にとっては嘘のような話しにしか聞こえないのも確かでしょう。だからこそ繰り返しになるかもしれませんが、少しでも興味関心のある人ならば数千年の歴史を持つ大昔からあって信頼できる伝統的な宗教の教えに基づいた精神修行を行って自ら直接に真我を体験してみることを目指してみるのが良いのではないですかと申し上げているのです。伝統的な古い宗教の教えを目安にすれば怪しいお金集め人集めだけの宗教にひっかかる心配も少ないのではないでしょうか。何千年という長い歴史には、やはり人類の智慧と智識があるはずです。それを頼りの綱としてみるのが良いのかもしれません。まずは仏教・ヒンズー教・キリスト教の聖典・聖書を読みインドの聖者について書かれた本を読んで基本的な知識を一通り一人で学ばれることをお勧めします。どこかの宗教団体に、ことさら関わる必要は全くないと思います。むしろ関わらない方が良いかもしれません。座禅や瞑想の仕方を学ぶにしてもネットで検索すればいくらでも出てきますし本を買えば済むことです。どうしても誰かから学びたいと思うのなら、まずは家の近くで座禅や写経といった催しを行っている信頼できるお寺を見つけて利用すれば良いと思います。近くにそういうお寺がなくてもネットで検索すれば座禅会などを開いて座禅や瞑想の基本を教えてくれる僧職の方がいらっしゃると思います。私は必要ないと思いますが仮に、どこかの宗教団体に関わることにしたとしても出家は必要ないですし在家で十分だと思います。また高額な料金を取って上から目線で教えを授けますとか終了すると何かの位を認可してあげますというようなものはやめといた方が賢明です。そこにお金を出すくらいなら,沢山の宗教関連の本を読んで独学した方が身につきます。真理を知ったからといって、それをいちいち人に誇るようなものではないですし、人から認めてもらう必要も一切ないからです。真我の直接体験に基づいた真理を知っているかどうか悟っているかどうかは自分が一番分かっていることだからです。
私の信仰は真理に対する信仰です。何か特定の宗教や人物を信仰しているわけではありません。真理に帰依はしていますが、決してどこかの宗教や人物に帰依し崇めている訳ではありません。所詮、お釈迦様もイエス様も真我の現れでしかないのです。人々に真理を説く役目を負ってこの世に現れ出た現象でしかないのです。そして現象という意味では、私やあなた、他の誰であろうとも同じ現象なのです。なぜなら極端な話し現象世界とは、ただの色の集まりでしかないからです。その色の集まりに過ぎない現象世界を実在と思い込んでいるだけなのです。もちろん歴史上の偉大な人物としてお釈迦様やイエス様には敬意を払います。当然のことです。しかし、それは尊い教えを人生をかけて人々に伝えてくれたことに対する尊敬の念からです。人物自体を信仰しているわけではありません。人物を信仰したら、それは偶像崇拝になります。お釈迦様やイエス様は自分を神として崇めなさいと言ったでしょうか。あくまでも信仰の対象は真理なのです。それゆえに、私はどこにも所属することなく、ただ真理に帰依し真理を信仰しているのです。これは、お釈迦様もイエス様も同じだったはずです。ですから、真理が書かれているのなら、どのような宗教の経典でも、そこに真理が書かれているのであるならば、そこに真理が書かれていますと単純に理解の助けにしてもらいたいという気持ちから、こうやって動画を作ってご紹介しているです。
いかがでしたでしょうか。これで物語は終わりになりますが、カタ・ウパニシャドで語られる不死とは精神面での不死です。決して肉体的な不死ではありません。真我の直接体験をするとそれまでの認識が変容し、肉体が死ねば意識も同時に消滅するという考えが無くなるか若しくは影を潜めてしまいます。自分の意識内は、その意識は永遠であるという不死の認識で占められます。厳密には死んだ場合は感情や感覚、思考や記憶といった自我を構成する一切のものも含めた自我そのものも消滅してしまうので、純粋意識があると言っても、もはやそれは通常の人間の意識とは言えないものです。そういう意味で死ねば自我はもはやなくなってしまうので生まれ変わりも当然ないということになります。
そもそも、人々が普通に感じている私たちは体を持った人間であるという認識も元をたどれば錯覚から生じた幻想に過ぎません。その事も真我の直接体験をすることによって分かるようになります。恐れや心配の必要はどこにもありません。事前にしっかりと必要な知識を学んでいれば自分たちの本性が思考することも感じることもなく、自己を顧みることも一切ない、ただ在るだけの純粋意識に過ぎないことを知ったからといって、それで特段ショックを感じるということはありません。180度がらりと世界に対する認識は変わるでしょうが、だからといって、それらの事は自然なこととして受け入れることが出来るようになると思います。むしろ、それは素晴らしいこととして認識されるのではないかと思います。
それではカタ・ウパニシャドの最後に書かれた文章を言って終わりにしようと思います。予め文章内のわれら両名とは何を指すのかを言っておくと、死の神ヤマとナチケータスのことです。つまり人間とその人間に必ず訪れる死という意味です。両者は、けっして憎しみ争い対立し合う関係ではありません。両者にとっては互いに良い関係性を築くことが大事です。実際、人間と死は互いに良い関係性を築くことが出来ると私は思います。またオームとは宇宙の根本原理のブラフマンを象徴する聖音とのことです。
それでは最後の引用です。
第6章結文「われら両名を、ブラフマンはともに助けよ。われら両名にブラフマンはともに役に立て。われら両名はともに努力しよう。学習はわれら両名に輝かしくあれ。われらは互いに憎しみあうことなかれ。オーム、寂静あれ、寂静あれ、寂静あれ。」
今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。