下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。
私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が30回の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。
今回はユーチューブ内で私が関心を引いた動画の話しをしようと思います。それは【ブッダの教え】バカだから悟れた〜愚か者から阿羅漢へ〜【一つの教えを貫く力】という動画についてです。この動画のURL
https://youtu.be/4y5_l8xTv8Y?si=kHRMg72kXLMRv1ys
は説明欄に張り付けておきますので、まだご覧になられていない方は視聴してみてはいかがでしょうか。なぜ、私がこの動画について取り上げようと思ったかというと、その動画のコメント欄の中に「シュリハンドクの経験は素晴らしい。 しかし、阿羅漢になったからといって輪廻から解放されることはないですよ。」というコメントを見つけたからです。
ウィキペディアで「阿羅漢」の欄を見てみると『仏教用語の阿羅漢(あらかん)とは、サンスクリット語のアルハット、パーリ語のアラハントに由来し、仏教において最高の悟りを得た尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。 』と書かれています。ウィキペディアに書かれていることはコメントの内容とは正反対です。本当に阿羅漢はコメントした人が言うように輪廻から解放されることはないのでしょうか。私はチューダパンタカは輪廻から解放されたと思っていることから、今回は、私の真我の直接体験と関連付けながら、その方向へ答えを導き出せるように話しを進めていこうと思います。それでは始めます。
まず基本的な知識として動画の主人公であるチューダパンタカという人物は、お釈迦様の弟子の一人であり、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった十六羅漢の一人であるとウィキペディアには書かれています。どうやらチューダパンタカという人はすごい人だったようなのですが、 ウィキペディア内にも書かれている通りあまりの物覚えの悪さから経典の内容を一つも覚えることが出来ず仲間内からは愚か者と蔑まれるほどの修行僧だったことから、同じ修行僧である兄から還俗するようにと言われるほどでした。ところが、その事を知ったお釈迦様はチューダパンタカの素質を見抜いていたことから還俗するのを引き留め「塵を除く」「垢を除く」と唱えながら精舎の掃除をするようにと言われ白い布切れを渡します。それ以降、チューダパンタカは紆余曲折はあったもののお釈迦様に言われた通りに懸命に一心に掃除に取り組むことで、自身の身の上に負わされた愚鈍という困難を乗り越え悟りの光を見出し阿羅漢となって輪廻から解放されます。
それが動画のストーリーなのですが、この話しの中での私なりの着眼点はどこかというと、この場合の掃除をする対象は一体何なのか、渡された布切れはなぜ白だったのかということになります。単に僧たちが修行を行う場所をきれいにしろとお釈迦様が言ったのではないことは誰にでも分かることだと思います。ウィキペデアの周利槃特(しゅり・はんどく )の欄には、チューダパンタカが悟った落とすべき汚れとは、必要以上にむさぼり求める心のことである貪(とん)、怒りや憎しみの心のことである瞋(じん) 、真理に対する無知な愚かな心のことである痴(ち)という仏教でもっとも克服すべき煩悩である三毒のことであったと書かれています。従って、動画内でも語られるとおり、この場合におけるお釈迦様が掃除をしろといった場所は心ということになります。真に意識を向けなければならない方向は外側ではなく内側の心に対してということになります。次いでお釈迦様に言われた除かなければならない塵や垢とは具体的に何を意味しているのかということになりますが、掃除をしなければならない場所は心ですから、当然取り除かなければならない塵や垢とは欲に代表される自我ということになると思います。
しかしながら私が思うに、もしかしたら、この取り除くべき塵や垢には、欲に代表される自我だけでなく、もっと、それ以上の大きな意味が込められていたのではないかと思います。お釈迦様はチューダパンタカにそこまでの期待はしていなかったのかもしれませんが、さらにもっと踏み込んで私という観念を生み出す拠り所になっている感覚や存在性そのものまでも取り除くことを視野に入れて仰られていたのかもしれません。ウィキペデアの周利槃特(しゅり・はんどく )の欄には、落とすべき汚れが貪(とん)瞋(じん)痴(ち)であると悟ったとまでは書かれていますが、チューダパンタカが至った落とすべき汚れが落ち切った先にある本当の意味での悟りの境地は何だったのかという肝心の事は書かれていませんし、動画内でも、それを説明するまでには至っていません。ですから、それらも含めて、チューダパンタカが至った本当の意味での悟りの境地とはいったい何だったのかについて私なりの考えを自分の体験を交えて今から述べようと思います。
私が思うに貪(とん)瞋(じん)痴(ち)とは、次のようなことが根底にあるからこそ生じるのではないかと思います。まず誰にでも肉体と言われているものがありますが、肉体が自分だと感じるのは単なる錯覚でしかありません。一番身近に見える私のものと思い込んでいる体に生じる感覚と精神活動及び基になる存在性が、目の前に展開する現象世界をあたかも実在しているかのように誤認させるのです。感覚に伴い沸き起こる感情やどこからともなくやってくる思考が、自我の基礎となる、この世における周囲から独立した存在であると認識する個としての「私」という自意識を形成するのです。その自意識が肉体と周囲の環境を支配しコントロールしているという主体性を生み出して、それが「私」は「私」という他の人とは違う「私」の人生を生きているという思い込みを生じさせるのです。加えて、何度も繰り返される感情や感覚や思考は特定の様々な事柄への執着をも生み出します。さらに、私のものと感じる体を基点として現象世界で起こる様々な出来事を鑑賞していることによって世界の中心は自分にあるという錯覚まで引き起こします。
真理に気づいていない人は、自分の内外面で起こる事象を周囲から完全に独立した一人ひとりの人間が実在していることを前提に関連づけて考えますが、真実は個々の独立した個人などどこにもいないのです。それらは全て幻想であり単純に自動的に起こっている、ただの映画でしかないのです。お釈迦様は、当然その事を分かっているので、それらの誤った認識を含む精神活動と感覚と存在性の一切を取り除きなさいという意味も含めて仰られていたのではないかと感じます。
次に渡された布切れがなぜ白だったのかということですが、当たり前のこととして白い布切れは使えば使うほど汚れが付いて濃淡のある暗い色へと変色していきます。これはまさに、布切れが黒く汚れていく様は自我によって変容していく純粋意識のことであり、私という存在性が様々な形をとって顕現する現象世界を汚れとして理解することが出来るのではないかと思います。つまり、最初は真っ白な淀みのない純粋な意識も自我に捕らわれ煩悩にまみれて執着心が付いてしまえば、ついにはボロ雑巾のような心に成り下がってしまうという譬えが成り立つのではないかと思います。従って、掃除で白い布切れが薄汚れていくたびに精舎の汚れが取り除かれるように、本来の清浄な純粋意識に戻れるように自身の内面の自我という汚れをその白い布切れでふき取っているのだと思って掃除をしなさいという意味合いもお釈迦様が渡された白い布切れの中には込められていたのではないかと思います。
お釈迦様は経典を読んで書かれていることが理解できない人に対しては、たとえ深い意味までは分からずとも実際の体の動きを通して理解しようと努力することの大切さくらいまでは分からせようとしたのではないかと思います。ところがチューダパンタカは、驚天動地と言ってもいいくらい彼を知る周囲の人々が、まさかそこまでいくとは端(はな)から思っていなかったことを成し遂げ、お釈迦様でさえも予想だにしていなかったほどの成果を出してしまったのではないかと思います。
ところで、そのお釈迦様も含め、当の本人でさえも思いもしないことを成し遂げるに至った悟りに至る修行としてチューダパンタカが取り組んだものは掃除です。まさに馬鹿の一つ覚えのごとくお釈迦様に言われた通りにチューダパンタカは掃除に専念しました。その事で徐々にお釈迦様が仰られた言葉の深い意味を頭で考えて理解するのではなく体の動きを通して体得していったのではないかと思います。最初、チューダパンタカは、その事が何につながるのか全然分からなかったと思います。しかしながら、掃除に一意専心することで知らず知らずのうちに悟りの真髄を体現していったのだろうと思います。理解できない経典に書かれている難しい教えを読んで学ぼうとするよりも訳も分からず言われたことだけを無心に取り組んだことが奏功(そうこう)したのではないかと思います。その事で、いつものように掃除をしている最中に何ら謀(はかりごと)をせず意図することもなく悟りをことさら意識しない心的状態だったことが有利に働き、かつ機が熟したこともあって、一切の煩悩が消える忘我の極致とも言える無私の領域へと入ることが出来たのではないかと思います。それにより光のようなものに包まれたと表現される悟りの中でも最も深い悟りを得ることになったのではないかと思います。
このチューダパンタカが経験した悟り体験を私自身の経験に照らし合わせて考えてみると、主体性や心の消失のみならず存在性の消失までもしてしまう真我の直接体験までの過程を一度の神秘体験で一気に経験してしまったのではないかと思います。私の場合は、2020年の3月頃 の読書中における私には私という主体が無いという気づきが最初にあり、次に2022年の1月には数秒か数十秒か、或いはそれ以上だったのか分かりませんが一時的ではあるものの心の消失とも言えるような完全に心の動きが停止した状態をこれまた読書中に経験するということがありました。その時の状態を説明すると、うまく形容できないのですが、もしかすると停止したものは心の動きというよりも精神の活動と言った方がより正確かもしれません。その精神の活動が一時的に完全停止する体験では、見えている事象をいいの悪いのと判断する働きがなくなったことで本当の意味で目の前に見えている世界をあるがままに見ることが出来ました。そこには、生(なま)の感覚情報しかなく心の動きが含まれていないことから目の前に見聞きしているものがあるにもかかわらず、あたかも世の中の動きと自分とは無関係のような感覚になり私の内なる活動は一時停止ボタンが押されたがごとく動きが止まり深い虚空となって精神面では寂静(じゃくじょう)と言っていいほど静かな状態になりました。五蘊に当てはめるなら色蘊(しきうん)受蘊(じゅうん)、想蘊(そううん)、行蘊(ぎょううん)、識蘊(しきうん)の中の想蘊(そううん)以降の精神活動が停止した感じだったのではないかと思います。そして、そういう状態になってはじめて、私は、私の中に私の体を通して世界を見ている感情というものや善悪というものが無く、いかなる事に対しても動じることもなく不動で無慈悲で冷徹無比な絶対の沈黙の観賞者の視点があることを感じました。それは、いわゆる神の視点だったのではないかと思います。私は私の中に神の視点があることに気づいたのでした。その事は翻って、私の中に神の視点があるというのなら他の人の中にもあるということに当然なります。この神の視点は私だけでなく全ての人間、すべての天地万物の中にあるのではないかと思います。単純に、ほとんどの人は外側のことばかりに気を取られているせいで、自分の中にある神の目の存在について気づいていないだけなのだと思います。昔から人の行動を、おてんとう様が見ているとか神様が見ていると言われてきたことは本当のことだったということが分かりました。
ちなみに五蘊の中の漢訳で色(しき)と訳されるサンスクリット語のरूप(rūpa) ルーパについて、 原義では色彩よりも容姿、色艶(いろつや)、美貌をさしているとウィキペディアの色(しき)の欄の冒頭に書かれています。 そこでインターネット上の何か所かのサンスクリット語翻訳サイトを使ってこのरूप(ルーパ)を日本語に翻訳してみたところ、形あるいは形状と訳されました。このことから翻訳者はरूप(ルーパ)を直訳しなかったことが分かります。なぜ、रूप(ルーパ)を直訳して形(ぎょう)蘊としなかったのでしょうか。なお色(しき)という読み方は呉音(ごおん)ですので、同じく呉音で形はぎょうと読みます。色蘊(しきうん)の色(しき)とは、認識の対象となる物質的存在の総称として色(いろ)や形のあるもので一定の空間を占めて他の存在と相容れないが絶えず変化し、やがて消滅するものという説明でウィキペディアの色(しき)の欄には書かれています。このことからサンスクリット語のरूप(ルーパ)を色(しき)と一番最初に漢訳した中国のたぶん僧侶の方は、目に見える形ある世界は単なる色(いろ)の集合に過ぎないことを理解していたのかもしれません。私たちが、そこにあると思い込んでいる世界はスクリーンやテレビ画面に映った単なる色(いろ)の集まりの映像と同じものなのです。だから文字通り色(しき)、いろと表記されるのです。また五蘊の中の認識対象を区別して知覚する精神作用である識蘊(しきうん)と音(おん)を同じくすれば語呂がいいということもあったのかもしれません。
話しを私の気づきの方に戻します。三度目の気づきは二度目の気づきから1年以上経った2023年の5月に思いがけず起こりました。それは目の前の現象世界が消えてしまうどころか私という存在性までもがなくなる真我の直接体験でした。私はニサルガダッタ・マハラジやシュリー・ラマナ・マハルシといったインドの聖者について書かれた本を読んできていたことから、その人たちが言っていることの類似性や私の直感的理解からその体験が真我の直接体験であることが分かりました。真我の直接体験については過去動画で何度も言ってきているので、その事について知りたいというのであれば過去動画をご覧ください。私にとっての大きな気づきと言えるものは今挙げた三つですが、それ以外にも、過去の動画内でお話ししてきたような大なり小なりの細かな色々な気づきが合間にあり、ここ数年の間の短期間でのことではあるものの、それらの気づきの経験は階段を一段ずつ上がるように段階を経ながらやってきたと感じます。
一方、チューダパンタカは私のように段階を経ることなく、突然堰を切ったように意識内から私という主体性や精神の働きだけでなく体から受ける色々な感覚や存在性さえ感じなくなってしまうところまで一気に進行してしまい純粋にただ在るだけの存在になってしまう体験を最初の神秘体験でしてしまったのではないかと思います。
何度も同じ話しが重複するかもしれませんが、私の経験を例に挙げながら説明すると、真我の直接体験をしている間は存在性を感じないことから現象世界は消えさります。存在性が生じた時にはじめて感覚と共に比較できる現象世界が現れ出ます。そこには相対性があることから主体と客体があるという誤認を生じさせます。そして現れ出た現象世界の中の対象への認識作用があるからこそ心の動きも生じ、それらの心の動きと様々な感覚とやってくる思考の相乗効果によって主体を持つ私があると錯覚するのです。従って、認識作用が完全に停止し心の動きが止まれば現象世界はただの映像と化してしまい感覚もただの感覚になってしまい快不快はなくなります。チューダパンタカは、主体性と認識作用と存在性の消失という三つの消失を同時に当の本人にとっても思いもよらないこととして出し抜けに起こったのではないかと思います。
私の場合の一番最初の気づきは、人生の中で起こる出来事はもう決まっていて物語は既に完成しているという気づきでした。それが人生をコントロールしているという私という主体性がないという考えになりました。その主体性がないという考えは以前の動画内でもお話しした通り、始発駅も終着駅も途中の停車駅も車窓から見える風景も全て決まっている鉄道に譬えたごとく、自分の人生もあらかじめ決められたレールの上を走る列車に関連づけて理解した結果として得られた認識です。それ以降、私という主体性は完全に喪失しました。もはや私には主体性というものはないのです。全ては神が定められた筋書通りの宮本昌俊という人生の物語を体験しているという認識しかありません。この私の体験を動画の流れに照らし合わせて見てみると、チューダパンタカの悟り体験の始まりは、それまでの人生の軌跡の全てには意味があり、一本の糸でつながっているように全ては起こるべきことが起こるべきこととして起こっていたことを知ったことが最初にあったことが分かります 。これは私の2020年の3月頃 の読書中に起こった最初の気づきから得られた、人生は鉄道に譬えることが出来るという理解と同じです。悟り体験は人それぞれで千差万別なのでしょうが、もしかしたら断言はできませんが真我の直接体験に至るまでの一連の流れには順番というものがあるのかもしれません。
なんにせよ、その悟り体験が漸次(ぜんじ)的 であろうと一気に空(くう)領域に入ってしまう即時的であろうと存在性の消失体験までしてしまうと、世界は、その人の体にまつわる事柄を含め全ては空(くう)の現われとして、ただの現象でしかないという認識に変わってしまいます。
毎日、私たちが見ていてほとんどの人が自分の外側にあると思い込んでいる世界は実在であるという見方が正常であるという視点に立てば、チューダパンタカの体験の方が普通ではない異常な意識の状態であり、それが止んだことで元からある現象世界と心の動きに気が付いた、つまり正気に戻ったというように考えることが出来ますが、私からすると、この考えは全くの逆で世の中の常識からすれば通常ではない異常な状態であると一見すると考えられる私という存在性つまり自我が消え去った空(くう)こそが本来の姿ではないかと思います。真我の視点に立てば、何もない空(くう)である意識の純粋性の中に生じた存在性によって現象世界が現れ出たのであり、それに呼応するように生じた認識作用が外に向いたからこそ、光が収まった後の自分の体がいつの間にか座り込んでいたことや周囲に掃除道具が散らばっていたことにも気づくことが出来たと言えるのではないかと思います。この事から、まず存在性が生じなければ現象世界は成り立たないことが分かると思います。
チューダパンタカの意識は真我の直接体験後、現象世界に戻ってきている訳ですが彼の体験は一時的な自我の消失、私という存在性の一時的な消失だったのではないかと思います。注意すべきところは、チューダパンタカの私という存在性の消失後に復活した自我は以前の自我とは違う自我ということです。それを体験する前の自我とは明らかに違う全くの別物と言えるような自己の本質を知っている自我ということになります。そういう意味で古い自我が消滅して新しい自我に生まれ変わったとも言えるかもしれません。
お釈迦様は、愚鈍と言われたチューダパンタカの変貌をそこまで見越して掃除をするように言われたのかどうかは分かりません。正直なところそこまで期待していなかったのではないかと思います。だからこそ、チューダパンタカが悟りを開いたことを聞いた時、満面の笑顔で「よくぞ悟りを開いてくれた」と思わず言ってしまったのではないかと思います。
そして、ここにきてようやく最初の問いに戻ることが出来るようになりました。本当に阿羅漢はコメントした人が言うように輪廻から解放されることはないのでしょうかという問いです。答えは、ここまで私の話しを聞いてきた人にはもうお分かりのはずです。阿羅漢となったチューダパンタカは間違いなく解脱しました。彼は主体性と認識作用と存在性の全て、つまり、それら全部をひっくるめた現象世界が消失する体験をしたことで、この世の全ては私という存在も含め幻想であるということを理解したはずです。故に、この世はすべて幻想なのですから輪廻しなければならないものなど元からないと分かったはずです。身をもってそれを知った以上、幻想に過ぎない肉体が死んだからといって同様にありもしない魂が輪廻などするはずもなく、チューダパンタカは死ぬ前も死んだ後も永遠の空(くう)として未来永劫に存在し続けることになるのです。この空(くう)こそが生きとし生けるものを含む全ての有形無形を問わず森羅万象の全てにおける真の自己であり永遠の命なのです。だから、チューダパンタカは動画の中で弟子たちに対し末期の言葉として「この肉体が滅しても私の存在は永遠に続くのだ。阿羅漢として私はもはや三界には戻らない。輪廻から解放され永遠の存在となるのだ。永遠の彼方から君たちを見守り続ける。そして私の教えが君たちの心の中で生き続ける限り、私は君たちと共にあるのだ。」と言ったのです。
どうでしょうか。私の言っていることがお分かりになられたでしょうか。この動画からも分かると思いますが、真理としての空(くう)の本質を頭で理解しようとしても全くの無駄な努力です。頭で理解しようとすればするほど空(くう)から遠くなります。心の中にある頭で考えて理解しようとする執着心をまず捨てなければいけないと思います。それが分からない限り空(くう)に到達することはないと私は思います。
加えて、悟りを目指す探究者全員がチューダパンタカを見倣う必要があると思います。本当に悟りを目指す真理の探究者であるのなら、まずは自分は真理について何も知らない自分は無知であるということを素直に認め受け入れることから始めることが必要なのではないかと思います。賢者となる者の修行は自分の愚鈍さを素直に認め受け入れるところから始まるのではないかと思います。私は何も知らないし分らない。それに気づくことが悟りの始まりでもありますし第一歩とも言えます。
もしかすると、もしかしなくても地球上の生物の中で一番高等な生き物は人間で、人によっては自分こそが生物種の中でもっとも神に近い存在或いは自分こそが神として相応しい存在であるというように、まさに神をも畏れぬ所業をなし自惚(うぬぼ)れている人が80億も人がいるのですから、そういう考えの人が中にはいるのではないかと思います。そういう人は確実にいるでしょう。
私が、これから言うことを聞いてショックを受ける人がいるかもしれませんが断言します。人間は神から最も遠い存在です。人間が自分たちよりも低い存在であると見下している動物や植物といった生き物たちの方がよほど神に近い存在です。知能が低いと考えられている存在であればあるほど私は神に近くなると思っています。
前回の動画で、私は真我である空(くう)について次のように話しました。「不思議なことに、それはそれ自体で何かを考えるということはありません。従って、真我は自分自身について何も知りませんし分ってもいません。明晰な気づきであるにもかかわらず考えることがないので自分自身の存在について気がついていないのです。なぜなら、自分自身を顧みるということがないからです。」また、その少し後に次のようにも話しました。 「真我は真我自身について何も知らないし分かっていないのです。自分の存在性にさえ気がついていないのです。神は神自身について何も知らないのです。だから、ただ在るだけの存在なのです。それを感じるのは現象世界が立ち現れた後の事なのです。究極の純粋性であるが故に神が神を感じ、神が神について考えられるようになるのは現象世界が現れた後の事なのです。 」
これは私が真我の直接体験から得た真理の一端です。神は、ただ在るだけの存在です。神が、神ご自身について自分が何者であるのかということを考えることはありません。従って、自分が何者であるのかと考えることができる人間こそが決定的に他の生物と違う高等な生き物としての証拠であるとして他の生物種を劣等種扱いするならば、人間こそが神から最も遠い存在ということになります。更に理性や知性が高い者ほど価値があり優れた立派な人間として称賛に値するなどと考える人がもしいたとするのならば、そういう人ほど、ますます神から遠い存在になっていくのは間違いありません。
マタイによる福音書18章の3節から4節にかけてイエス様は次のように仰られました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」同じくマタイによる福音書19章の14節「イエスは言われた。子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
イエス様は神の本質を知っておられました。空(くう)を悟られていたのだと思います。ですから、私が誰かから森羅万象の中で最も神の純粋な性質に近い存在は何かと問われれば、それは何も考えることなく生きるためだけに生き、かつ、ただ存在するためだけに存在している赤ん坊か赤ん坊のような人間、或いは人間以外の天地万物という答えになります。もちろん人間も含めて、この現象世界の全ては神の現われであることに変わりがないのは言うまでもないことです。ただ人間は、神の純粋性から最も遠い存在というだけのことなのです。
だからこそ、この事から必然的に導き出される真理の探究で重要になってくる精神鍛錬は何かということになると、あれやこれやと考えを巡らすことだけでなく、当然のごとく、ただ無心になることを目指す瞑想や座禅、それに類似する精神鍛錬法ということになります。
また、それに関連付けて更に聖書を私なりに解釈したことを申し上げさせてもらうならば、ただ無心になることを目指す精神鍛錬法の実践が行きつくところはどこかというと、旧約聖書の創世記に出てくるアダムとエバが禁断の木の実を食べる前の状態につながるのではないかと私は考えています。アダムとエバが禁断の木の実を食べる前の状態とは善悪を判断できる前の状態のことです。自分たちが裸であることに気づく前の状態です。自分自身を顧みることが出来る知恵を身に着ける前の状態です。私は真我の直接体験とは、神によってエデンの園を追放される前の無原罪の状態に戻ることを意味するではないのかと思っています。少なくとも一脈通じるものがあるのではないのかと感じています。なぜなら、善悪を知るとは私やあなた、あそこやここといった彼我の差を認識することでもあるからです。故に、現象世界の全てを一者の現われとして平等に見る必要があるのです。善悪を判断する個としての私など元から無いことに気づかなければなりません。私という主体がない無我の境地です。お分かりいただけるでしょうか。そういう意味において旧約聖書も物語や譬えを用いて真理を伝えようとしているところもあるのではないかと私は思います。
いずれにせよ、チューダパンタカのように存在性そのものまでも一度にいっぺんに消滅させ一気に空(くう)の段階まで行くのはなかなか難しく無理かもしれません。人それぞれやり方は多種多様だと思いますが、まずは私という主体性のない我無しの気づきを得られることを目標にするのがいいのかもしれません。くじけることなく根気よく、それでいて執着することなく気長な気持ちで腰を据えて人生のテーマとして悟りを目指していただけたらと思います。
それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。