下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。
私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が29回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。
では、本題に入ろうと思います。どの回だったかは思いだせませんが、以前の動画内で私は自分の人生に対して責任はないと言ったことがあると思います。これを聞いた人は、私が随分いい加減な人間だと思ったのではないでしょうか。そう思われても仕方がないと思います。普通の世間一般の考え方しか持ち合わせていない人であるなら、私に対す評価はそれで構わないと思います。私も気にしません。しかし、悟りを目指す人ならば、私がなぜそんなことを言ったのかという真の意味を考える必要があると思います。
私はいつも、私は神の奴隷であり私は神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っています。そこから推測できると思いますが、それから当然のごとくたどり着く答えは、主体と言えるものが私にない以上、私は私の人生において責任は全くないということになるのです。全ては起きるべきことが起こるがままに、ただ起きていることから、如何なる事であろうとも、たとえ故意であろうと過失であろうと人や物を傷つけることが起こったとしても、真我の視点からすれば、その一連の流れには一切責任が無いということになるのです。もちろん、その行為が何らかの法に触れるのであれば、それは違法なこととして刑事民事共に責任を取らされ、加えて法律以外のところでも世間一般で言われる道義上の責任を取らされることになるのは間違いありません。言うまでもなく、これが人間として生きる上での社会的なルールです。さらに外的なものだけでなく人の内面から湧き上がる感情面において罪悪感に苛まれることもあると思います。私も日常の社会生活を普通に送っている人間の一人として当たり前のことですが、それらの事は、この世で人として生きる限り避けては通れない当然の因果として認識しています。私が言っているのは、あくまでも真我の視点に立った場合、この世のことは全てただの映画だから台本通りプログラム通りに動いている登場人物には何の責任もないと言っているのです。
ですから、そのような考え方に立てば、この世で起こる如何なる事であろうとも、それはあくまでも映画の中だけの事、幻想の世界の中だけで起きていることでしかないと言っているのです。よって、その行為の責任が幻想の世界の範疇を超えて、この世以外の例えば死後の世界とか来世といった別のところに引き継がれるなどというようなことは絶対にないのです。なぜなら、この世界は何度も言うように幻想の世界でしかないからです。唯一の実在は真我のみであり、それ以外は真我が経験したいことを経験するために作られた、ただの映像だからです。従って、この世での悪業よって死後地獄に落ちるとか来世に畜生に生まれ変わるなどという話しも単なる幻想の物語に過ぎません。単なる戒め以上の意味はないのです。
まさに白い画用紙上に描かれた絵画のようなものです。少し図解してみます。図解といっても今のところ私にはAIを駆使した動画を作成する知識がなく白い画面をお見せするだけになってしまいます事をご了承ください。また、実際の空(くう)は、このようなものではありませんし、本来言語や映像を使って説明できるものでもありません。偶像崇拝禁止とは如何なる手段を用いようとも、それを表現することは不可能であり頭を使って理解できるようなことでは到底ないという意味なのです。従って、それを体験したことがない人が譬えを聞いたからといって、それを頭で理解できるような代物でもないことをお断りしておきます。あくまでも、疑似的なイメージを抱かせるための譬えであり、直感的な理解を呼び起こすための誘い水という事になります。
今見ているのが空(くう)の世界です。画面いっぱいに広がった真っ白で何もない世界が空(くう)です。枠が書かれていないのは果てのない無限の世界を表しています。私がいつも言っている真我とは空(くう)の世界のことです。
自我のない純粋意識とも言えるその真我には、肉体はありませんから感覚などというものはありません。旧約聖書の出エジプト記3章に書かれている神の名前が示す通り、ただ在るだけの存在です。そこは、現象が始まる世界でもあり現象が終わる世界でもあります。だからアルファでありオメガなのです。そして、その存在は、それ以上のものが他にない究極の絶対的存在とも言えます。だから最初のものであり最後のものなのです。ですから不動なのです。だから空(くう)なのです。不思議なことに、それはそれ自体で何かを考えるということはありません。従って、真我は自分自身について何も知りませんし分ってもいません。明晰な気づきであるにもかかわらず考えることがないので自分自身の存在について気がついていないのです。なぜなら、自分自身を顧みるということがないからです。思うにそれは、それしか存在していないことに起因するからかもしれません。
たぶん道端や荒れ野に生える雑草は自分が道端や荒れ野に生える雑草であることに気づいていないはずです。雑草が自分は何者であるのかという事を考えるでしょうか。ありとあらゆるものは空(くう)の中で生じているので雑草にも仏性はありますが、雑草は雑草としてただ生きているだけです。雑草は自分が雑草であることを知らないし自分の存在性にも気がついていないのではないかと思います。それと同じように真我は真我自身について何も知らないし分かっていないのです。自分の存在性にさえ気がついていないのです。神は神自身について何も知らないのです。だから、ただ在るだけの存在なのです。それを感じるのは現象世界が立ち現れた後の事なのです。究極の純粋性であるが故に神が神を感じ、神が神について考えられるようになるのは現象世界が現れた後の事なのです。それを体験したことのない人には全く理解できないことでしょうが、私が真我の直接体験をした際の真我とはそういう存在なのです。本当に真我や空(くう)とは、人智を超えた深遠な存在としか言いようがありません。ですから、まさしく虚空を掴むようなことになることから「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」と出エジプト記20章7節に書かれているのです。故にユダヤ教やキリスト教では、軽々しく神の名を語るような真似をしてはいけないと教えられるのです。
また、それに関連して今画面に出ている「יהוה 」神聖四文字は右から順に読むと י (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)というヘブライ語で22文字のうちの3文字で構成されています。旧約聖書や新約聖書に登場する唯一神の名前を表すそうです。アルファベット表記では、御覧のようにYHWHと書いてヤハウェと読むようです。しかしながら、元々の י (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)の四文字は子音だけで表記されていて母音がないために正確な発音が分からず現在でも神の名前の正確な読み方は分かっていないということになっているとのことです。
ヘブライ語については付け焼刃的知識なので今の説明が正しいのかどうかも怪しいですが、これについても私なりの私見を恐れることなく忌憚なく言わせてもらうならば分からなくて当然というのが私の考えです。
ウィキペディアの「ヤハウェ」の欄には紀元前516年から紀元後70年までの第二神殿時代より前の古い時代において自由に口にされていたものの、第二神殿時代以降では公の場でי (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)で表記される神の名前を話すことはタブーと見なされるようになり、代わりにユダヤ人はその名前を私の主という意味のアドナイという言葉に置き換え始めたようであると書かれています。
私はこの四文字のי (ユド)、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)は神を表すただの記号でしかなかったのではないかと思います。ですから記号を記号として、どう読んでいたかなどはどうでもいいことです。これも偶像崇拝禁止の一環です。だから分からないままでいいのです。究極のただ在る存在に名前があってはいけないのです。出エジプト記3章14節に名前を尋ねたモーセに対し「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神が答えた記載がありますが、これはただ在ることしかできない存在の性質を言われたものなので神の名前と言えるものではありません。そもそも唯一の実在は神お一人だけで他に実在と言えるものはないのですから名前など必要ないのです。名前を付ける必要は元からなかったのです。もちろん、四つの子音文字には、それぞれの意味があります。そこで、文字の意味を私なりにつなげて神を意味する四文字を簡単に解釈してみようと思います。
なお、文字の意味を解釈する上で北海道砂川(すながわ)市で空知太(そらちぶと) 栄光キリスト教会の牧師を勤める銘形秀則(めいがた ひでのり)さんという方が開設しておられる「牧師の書斎」というウェブサイトに「ヘブル語の文字に表せられた意味」というページがあったことから、そこを参考にさせていただきました。
また 同じく「牧師の書斎」ウェブサイト関連の「ヘブル語アルファベット意味 」PDFも参考にさせていただきました。
https://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_CB7Amj.pdf
さらに、kirinさんという方が書かれた2022年9月25日付けの『ヘブライ語のアルファベット(ヘイ、ヴァヴ、ザイン)』
https://note.com/kirin_maho02/n/n00367a70aa75、
同じくkirinさんの2022年10月1日付けの『地球の平和を願うヘブライ語「Yud」(ユド)の重要語句』
https://note.com/kirin_maho02/n/n4be2c2ce3fee 、
更に同じくkirinさんの2022年9月26日 付けの「ヘブライ語のアルファベット(チェス、テト、ユド)」
https://note.com/kirin_maho02/n/nc78eb2e019d2
という三つのブログにも大変興味深いことが書かれていたので、そこも参考にさせていただきました。参考元の銘形さんが公開されているウェブサイトとkirinさんのブログのURLは説明欄に載せておきます。是非ご一読されることをお勧めします。聖書を理解する上でヘブライ語の文字の意味を考慮しなければならない重要性を私は感じました。
それでは、参考としたヘブライ語の文字の意味が正しいという前提で話しをします。 神の名前を表すとされるי (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)の四つの文字にはそれぞれ色々な意味があります。 י (ユド)には 「ユダヤ人」「神の手 」「継続」「一点一画の一点」という意味があります。ה (ヘイ)は「ここにある」や「見張る 」「窓」「呼吸」という意味があります。ו (ヴァヴ)は、「単語の前につけて過去を未来に、または未来を過去に変換する」という意味や「決定する」「一点一画の一画」という意味があります。また、「高い階層と低い階層をつなぐシュート」を意味するそうです。 最後のה (ヘイ)は先ほどのה (ヘイ)と同じものですが、多分違う意味合いになるのではないかと思います。
私は言語の専門家でも何でもありませんしヘブライ語の文法は全く分かりませんので全くの当てずっぽうということになりますが、先ほど申し上げた文字の意味を適当につなげて、それらしく誰にでも通じるように文章を組み立てると次のようになります。「窓から見張り決定する神の手」です。これなら意味のある文章として通用するのではないでしょうか。
説明をします。窓とは何でしょうか。神は私たち人間の体に神であることを忘れて自己同一化しています。つまり、神は感覚器官を持つ私たちの体を通して現象世界を体験しています。ですから、私たちの体が神の窓になります。そして、この神が同一化する対象は人間だけではありません。神は私たち人間のみならず全ての天地万物に宿ることにより現象世界の全てを知るのです。故に、それにより神は全ての森羅万象に対して決定権を持つのです。従って、旧約聖書の創世記22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムが愛する息子を神が命じるままに生贄に捧げようとしたように、ありとあらゆることを神の手に委ねることが大切になる所以がここにあると言えるのではないでしょうか。私は、私の体と命をとうの昔に捧げ物として神に差し出しています。だから、私は神の奴隷であり神の操り人形でありプログラム通りにしか動かないロボットであると言っているのです。
以上が、 י (ユド) 、ה (ヘイ)、ו (ヴァヴ)、ה (ヘイ)の神を表す記号としての意味ではないかと思います。しかしながら、これは私独自の解釈であり何の確証もない完全に当てずっぽうなので、ただのたわ言として右から左へと聞き流して忘れてもらって結構です。
話しを白い画用紙に譬えた空(くう)の方に戻します。私は昨年の5月に真我の直接体験をしました。真我の直接体験をしている最中については過去動画を含め既に何度か申し上げた通りですが、改めて、その状況を説明しますと、その日、私は仕事で疲れて家に帰宅しました。着替えて直ぐに座椅子にもたれかかるように寝そべりました。その後のことは私にもよく分かりません。なぜそうなったのかは分からないのです。寝ていたわけではありません。なぜなら私は、在るとして在り気づいていたからです。ただ在る存在として存在していたのです。まさしく何もない空(くう)としか言いようがない状態として私は在ったのです。ただ在る気づきとして、気づいていることに気づいている純粋な気づきとしてただ在ったのです。その純粋な気づきが全てとして在ること以外には何もない空(くう)という言い方がふさわしい状態でした。そして、その一者としての空(くう)から現象世界が立ち現れたのです。その過程を申し上げるならば、自分自身の存在性に気がついていない、その純粋な気づきの状態の中に存在性がいつの間にか現れました。あるという存在性です。これは二元化、相対化の始まりだと思います。最初は左腕の方からだったと思います。その左腕の存在性が徐々に広がって頭や胴体となり足となり体全体の感覚となりました。目を開けると様々なものが比較されることで認識される現象世界が現れました。そして、それと共に私という自我もあることに気がつきました。なぜ左腕の存在性が最初に現れたのかは分かりませんが、左手首が額の上の方にあったからかもしれません。それが私における真我の直接体験の全てです。それからというもの私の意識の中には直接体験をした際の真我の感覚が離れることなく共にあります。
この体験から現象世界は、あくまでも純粋に意識の中で生じているものではないかと思います。純粋な意識の中に全ての生老病死に伴う苦楽があるのです。私たち一人一人が自分の世界を毎日眠りから目覚めるたびに創造しているのです。それは神が神自身を知るために自分を対象化する必要性から生じたことかもしれません。多分さらなる探究の必要性があると思います。
なんにせよ、一体全体、白い画用紙を譬えに使ったこの空(くう)の世界のどこに魂や死後の世界や生まれ変わりといったものがあるというのでしょうか。それらのものが見える感じるという人の話しを否定はしません。確かに、その人には霊が見えたり感じたりするのだと思います。
私自身も過去に不思議な心霊体験を何度かしたことがあります。ですから心霊体験という体験自体はあると思います。しかし、それら全ては私自身の心霊体験も含め幻想です。白の画用紙の中に描かれた、その人が経験する人生の一部としての幻想の物語でしかありません。霊を感じる或いは霊が見えるという幻想の人生を生きているだけに過ぎません。
そこに気づくことが、いわゆる悟りなのです。それに気づけば当然のごとく生まれ変わりなど元からないことが分かりますから輪廻などもないことも分かるようになります。それが世間で一般的に言われている解脱です。お分かりいただけたでしょうか。
今回は真我や空(くう)は、人智を超えた深遠な存在というテーマで話しを進めてきましたが、話しがあっちに行ったりこっちに行ったりと分かりずらかったかもしれません。なるべく一貫性を持たせて話しを進めようと思うのですが何とか理解してもらいたい一心で色々な話しを盛り込んでしまいます。また最初の方で申し上げた人生において何の責任もないという話しは、あくまでも真我の視点から見ればという限定条件付きであるということを忘れないようにしていただきたいと思います。人として生きる限り全ての行為に責任が伴うことは言うまでもありません。そこら辺の線引きは、しっかりと認識しながら悟りを目指していただきたいと思います。
それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。