Quantcast
Channel: 私は無いに気づいた後は
Viewing all articles
Browse latest Browse all 38

生長の家誌友会の卒業‼

$
0
0

 下記文章と画像は、ユーチューブ動画制作のために書いた原稿と挿画です。保存のために、ここに残すものです。

 

 私は無いに気づいた後は、をお送りする宮本昌俊です。今回が28回目の動画になります。このチャンネルは、いわゆるスピリチュアル系を題材にしていますが、全ては私個人の体験や考え方を根底にして硬軟織り交ぜて、私がこれまでに読んだスピリチュアル本などを取り上げながら、スピリチュアル的なものに関心がありながらも、「私は無い」をまだ体感しておらず「私が無い」に気づきたいと思っている人、また、既に「私は無い」に気づいてる人に対しても共感できる部分を共有できたらという思いで、たぶんほんの一握りの極々少数の人に対してメッセージをお届けできたらと思います。真実の存在である絶対と言える一つなるものたる私たち自身である創造主の導きにより、このチャンネルを見つけご覧になられる人に対して今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。では、本題に入らせていただきます。

 私は2015年の秋ぐらいから生長の家の誌友会に毎月参加していました。誌友会とは、自分が住んでいる地域の生長の家の信者さんたちが集まって教義等について学ぶ勉強会のようなものです。なぜ、誌友会への参加を始めたのかというと生長の家の教義が私の20歳ごろから考えていた宗教観に近いものを感じたからです。

 私は、今図で示しているように20歳頃から全ての宗教は大いなる神の一部を説明しているに過ぎないと思っていました。例えば黄色やオレンジのところはキリスト教で溝によりプロテスタントカトリック正教会といった教派に分かれ、青色は仏教で濃淡や溝によって多くの宗派に分かれます。赤やピンクはイスラム教で、これも溝によりスンニ派シーア派といった 多くの宗派に分かれます。それ以外の色は世界の諸宗教を意味します。見てお分かりのように群盲象を評すの譬え通り、あまりにも真理が大きすぎて人間には、その一部分しか把握できていないと思っていました。それに、人は、それぞれの気候風土に根付いた地域性、民族性、文化及び言語、個々の価値観、伝達能力など、様々なフィルターを持っていることから、同じことを見聞きしても、それを表現し他の人に伝えようとすれば個々人によって否応なく違ったものとして表されることとなり、かつ受け取る側の能力にも大きく左右されます。また、時間が経つにつれ時代の変遷と共に最初の表現物は歪曲されて伝えられることになると思っていました。つまり、世界に沢山ある宗教は、表現は違えども同じものを説明しているに過ぎないと思っていました。ただ説明している箇所が違っていたり、同じ場所を説明していても表現方法が違っているだけだと思っていたのです。従って、その根っこはすべて同じものであることから、全ての宗教は正しく間違っていないと私は考えていたのです。その考えは40年以上たった今も全く変わっていません。

 そういうことから、これから引用するウィキペディアに書かれている『生長の家は、神道や仏教、キリスト教天理教、大本等諸宗教はその根本においては一致するという「万教帰一」という思想を主張・布教』していて、『例えば先祖供養の形式については、信徒は仏教やキリスト教神道のいずれの方式で行っても、生長の家の教義に違反しない、ということであり、生長の家が信徒に対して改宗を求めない理由の一つとなっている。』としているような他の宗教を否定せず認めている生長の家の教義に関心を持つようになって、誌友会に参加するようになったのでした。

 しかしながら、2020年の3月頃の悟り系のスピリチュアル本を読んでいる最中に体験した「私は無い」という気づきにより内面で生じた急速な変化によって同じ年の2020年10月12日に退会する旨を伝えるメールを参加していた地域の誌友会長宛に出しました。それをこれから読み上げようと思います。

 

 

仮名〇某様

 

 仮名〇某様とお知り合いになってどれくらいの月日を経たのでしょうか。随分とお世話になりました。本当にありがとうございました。

 突然ではありますが、私は、そろそろ誌友会を卒業させていただこうと思います。今年に入ってから私はスピリチュアル的な深度が深まり、ある段階に達しました。いわゆる引き寄せの法則はないとの結論に達しました。これは私の直感的理解から導かれたものです。 以下に、その気づきの一端をお伝えします。

 ただの切っ掛けに過ぎませんが、「あの世には時間はない」この短い一文で私は気づきを得ました。あの世には時間はありません。無いのであれば物語の始めも途中も終わりも既にあるということになります。人生という全ての物語は既に完成していると分かりました。 それは端的に言えば「私」はないということです。ただ、真の存在が経験したいことを経験するために幻想の「私」がいるのだということを理解しました。

 その後、お釈迦様の説かれていることも自然と分かってきました。なぜなら、全ては一つだから。彼らの悟りは、私の悟りであり、彼らの気づきは私の気づきだからです。お釈迦様は、難しいことは何も言っていませんでした。この世での煩悩に対する執着を捨てよ。これは、ただ、この世を楽に生きるための方法を説かれていただけなのだと気がつきました。いうなれば無為自然老子の生き方もまた、この世を楽に生きるための教えだと分かりました。簡単に言えば”人生のハンドルを手放せ”です。為すに任せよ。なるがままにせよ。所詮、全ては真の存在が設定したプログラム通りにしか進まないのですから、ハンドルを握っていても全く意味がありません。

 つまり、鉄道のようなものです。始発駅も終着駅も途中の停車駅も車窓から見える風景も大なり小なり関わり合うことになる乗り降りする乗客も全て決まっているのです。従って、「私」は、ただの幻想でしかないと気づけば、この世はとても楽に生きられます。

 もちろん、それを受け入れるには「私」がない人生への絶望が前提になるでしょう。気づき、絶望、受忍、諦め、受容を何度も繰り返したのち、あるがままの自分を素直に受け入れるしかないと本当の意味での諦めの境地に至ることで真の認容が生じます。しかしながら、「私」こそが真実で「私」に囚われている人には、とても理解できないことでしょう。たとえ理解できないとしても、それも真の存在が経験したいと考えて執着する「私」を作り出しているのですから、それもまた善しなのです。楽しみたくて、わざわざお化け屋敷に入るのと同じです。不自由さを体験したくて無人島などでキャンプ生活をするのと同じです。だから、せいぜい恐怖や不自由さを楽しんだらいいと思います。なぜなら、真の存在が、それを経験したくて経験しているのですから。

 これ以外にも段階的ではありますが気づきを複数回得ています。数か月前には意識が広がっていき、あの人もこの人も、嫌いなあの人でさえも実は私自身であり、私が同時に全ての人を経験しているのだと感じました。私はあなたであり、あなたは私なのです。その感覚が正しいのなら、どうやら魂は一つしかないように思えますし、同時に全ての経験をしているのなら生まれ変わりもないように思えます。

 また、愛は外側にはなく自らの内側にあるものだとも感じました。答えは外側にはありません。全ての答えは自分の内側にあると思っています。長くなるので、私の気づきを書くのはもう終わりにしようと思います。

 最後に、甘露の法雨に書かれていることは間違ってはいないと思います。あれは、魂が魂に対して言ったことなので書かれていることに間違いはないと思います。ただ、スクリーン上の幻想の「私」には、フィルムに描かれた、ただの模様である陰影を書き換えることは不可能です。どうして、ただの模様でしかない、影でしかない、操り人形でしかない「私」がフィルムの外に出て陰影そのものを書き換えることが出来るのでしょうか。同時にフィルムに記録されている観念もフィルムに付随しているものですから、陰影でしかない影の「私」に書き換えることは不可能です。物語を書きフィルムを制作した真実の存在が書き換えをしない限り人生が変わることは絶対にありません。真の制作者であり、影ではない真実の大元の一つしかない魂が書き換えない限り無理というものです。でも、書き変わったとしても幻影の「私」には書き変わったことは認識できないでしょう。なぜなら、それに関わっていないからですし、書き変わった後の記憶しかないからです。但し、真実の存在が前の記憶を残そうとした場合は別ですが。

 いずれにしても、いわゆる引き寄せの法則があるという人たちは、あるという幻想を生きているだけです。引き寄せの法則があるという物語を経験しているにすぎません。これが、私の直感的理解から到達した認識です。

 以上のことから、いわゆる引き寄せの法則があると信じておられる方々の集まりである誌友会への出席は今後はしない方がお互いのためではないかとの思いに至りました。これまで私的にはとても楽しい時間を誌友会で過ごさせていただいたと感謝しております。お礼を申し上げます。ありがとうございました。また、時には、仮名〇某様や他の方々に不愉快な思いをさせたかもしれないことにも謝罪をいたします。大変申し訳ございませんでした。

 皆様のご健康とご多幸、今後のご活躍を心からお祈りしております。それでは、これにて失礼させていただきます。

 以上が、地域の誌友会長にあてたメールの全文です。生長の家の誌友会に対してはフェードアウトすればいいだけの話しであり、わざわざ退会する旨のメールを送る必要もなかったのですが懇意にしていただいたこともあり白黒はっきりさせたほうが良いと思ったので明確に退会の意思表示をさせていただきました。

  

 メールの中にも書いた通り、生長の家の経典である「甘露の法雨」自体や生長の家の基本的な教義はとても素晴らしいと思いますし共感できるものです。しかしがら、他の地域の誌友会のことは分かりませんが、私が参加していた誌友会の人々は皆いわゆる引き寄せの法則を信じていて、自分の思考で現実を変えられると思っている人たちばかりでした。その点で、やはり私にとって受け入れられるものではありませんでした。

 なぜ彼らが引き寄せの法則があると信じているのかというと経典である「甘露の法雨」の中に次のようなことが書かれているからです。一部を読み上げます。

 「物質は畢竟(ひっきょう)『無』にしてそれ自身の性質あることなし。これに性質を與(あた)ふるものは『心』にほかならず。『心』に健康を思えば健康を生じ、『心』に病を思えば病を生ず。そのさま恰(あたか)も映畵(えいが)の舞臺面(ぶたいめんと書いてスクリーンと読みます)に力士を映せば力士を生じ病人を映せば病人を生ずれども、映畵(えいが)のフィルムそのものは無色透明にして本来力士も無く病人も無く、たゞ無色透明の實質(じっしつと書いてフィルムと読みます)の上を蔽(おお)へる印畵液によりて生じたる色々の模様(もようと書いてくもりと読みます)が、或は力士の姿を現じ、或は病人の姿を現ずるが如し。されど健康な力士も虚弱なる病人も印畵液の作用によりて生じたる影にして實在(じつざい)に非ず。汝ら若し活動寫眞 の映寫機に印畵液によりて生じたる色々の模様(もようと書いてくもりと読みます)なき無色透明のフィルムをかけて舞臺面(ぶたいめんと書いてスクリーンと読みます)にこれを映寫すれば、やがて老いて死すべき健康なる力士もなく虚弱なる病人は無論なく、たゞ舞臺面(スクリーン)にあるものは光明そのもの生命そのものにして赫灼(かくしゃく)として照り輝かん。」

 私が参加していた地域の誌友会の人たちが引き寄せの法則を信じていたのは、この文章に起因するのではないかと思います。明言しておきますが、今読み上げた文章そのものに間違いはありません。正しいのです。しかし残念ながら、これは人間に対して言ったことではないのです。これはあくまでも魂が魂に対して言ったことなのです。つまり真我が真我に対して言ったことなのです。映画の制作者であり唯一の実在である真我が映画の登場人物を通して自分自身に向けて言っていることなのです。お分かりいただけるでしょうか。この現象世界はただの映像です。唯一の実在は真我のみです。その真我が、この世界を変える方法や仕組みを自分自身に対して説明しているということなのです。決して映画の登場人物である人間に対して言っているわけではないのです。そこを勘違いしてしまうと引き寄せの法則があると思い込んでしまうことになり、叶いもしない願望を抱いた結果、苦しみが生まれ無駄な努力をすることになります。

 経典は正しくとも、それを読み解釈する人たちが真実への気づきがない人たちばかりなので、結局、経典を自我にとって都合のいいように解釈することで現世利益(げんぜりやく )にあずかれると思ってしまうのではないかと思います。故に、自由な思考や自由な意思、自由な選択が無いという結論に達した者としては、これ以上誌友会に参加していても意味がないと判断し離脱を宣言したという訳なのです。特に未練はありません。入会当初、私も、いわゆる引き寄せの法則があると信じていましたが、そんなものはないと気がついた今、その会の人々に対する執着する気持ちは一切ありません。

 自分の思考で現実を変えられるなどという考え方は、結局、幻想の「私」に執着していることであり、そもそも変えたいと思う根底には現状に不満があるから変えたいという気持ちになるわけなので、仮に引き寄せの法則があったとしても根底に不満がある限り不満な現状が再生産されるだけに過ぎません。はっきり言って真実の存在にとっては、現状こそが完璧なのです。たとえ現状に不満があっても、その不満さえも真実の存在にとっては完璧なのです。真実の存在が必要とする経験すべき不満なのです。だから、現状に不満があってもそれはそれとして受け入れるしか方法がないのです。

 現状の不満に対して何もするなという訳ではありません。抵抗したければ抵抗すればいいと思いますし、改善したければ改善のための努力をすれば良いと思います。しかし、その抵抗や改善の努力さえも既に決められた物語の一部であることに変わりがないのです。抵抗や改善の努力でさえも真実の存在は経験したがっているということなのです。なんでも順調にいく人生は他の人が経験しているのですから、全ての人が順調な人生を送る必要はありません。全ての人が順調だったら、真実の存在からすれば、あまりにも退屈な人生ばかりを経験していることになります。だから、順調な人生の他にも苦難ばかりの人生や様々な状況がある人生も必要なのです。

 もし、引き寄せの法則があれば皆が順調な思い通りの人生を歩もうとするはずです。それでは真実の存在からすれば面白くなくなってしまいます。真実の存在が経験したいと思う経験が出来なくなってしまいます。だから、真実の存在にとっては引き寄せの法則があっては不都合なことになります。不都合な法則を真実の存在が創るはずがありません。なぜなら、この世界は真実の存在が経験したいことを経験したいがためにあるからです。お分かりいただけるでしょうか。従って、私が生長の家の誌友会への参加をしないことにしたのは、当然の帰結といえるでしょう。いずれにせよ、これも真実の存在が経験したい経験だったということなのだと思います。

 巷で流行る引き寄せの法則や現在のスピリチュアルと言われるものなどは19世紀後半にアメリカで起ったニューソート運動やニューエイジ運動に源流があるのではないかと思います。私は一概にそれらのものを否定はしません。なぜなら、それらのものも真我の現れの一つだからです。伝統的な宗教の古い教え方では限界があり、現代に合った新しい方法によらなければ伝えることができない部分もあると思うからです。しかしながら、現代に合った新しい伝え方も一つ間違うと商売の道具として使われ、それに惹かれた人たちがお金もうけに利用されるおそれがあります。もちろんお金儲けが悪いわけではなく、なんでもそうですが費用対効果として支出に見合うだけの納得できる効果が本当にあるのかどうかをしっかりと見極めることが大事だと思います。従って、お金が絡む話しには注意が必要だと思います。人生が救済されるどころか破滅の方向に向かう可能性もあることを忘れてはいけないと思います。視聴者の方には、ウィキペディアニューエイジニューソートの欄には必ず目を通しておくことをお勧めします。現代に至るスピリチュアルと言われるもののおおよその流れがつかめると思います。

 話しを戻します。ところで、私は2015年あたりから生長の家以外でも複数の宗教にかかわりを持っていました。家から歩いて10分くらいのところにあるプロテスタント教会エホバの証人の教会にも週1回は通っていました。また、小学校からの友人が崇教真光の信者であったことから、そこにも頻繁に出入りしていました。それ以外にも二つ三つのもはや名前が思い出せないような宗教団体の集会にも参加したことがあります。なぜかは分かりませんが当時の私は色々な宗教の教えを知りたいという欲求が強く積極的に近くの宗教団体の集会に参加していました。それと並行してお寺での座禅会やレイキヒーリングの講習会にも参加していたりしました。しかし、今ではそういうことに関心が一切なくなり、どこかの宗教団体にかかわりを持ちたいとは全然思いません。なぜかというと、仕事をしている最中であっても、家にいて本を読んでいる最中でも動画の原稿を書いている最中であっても、どこであろうと何をしていようと日常生活の中で精神修養はいくらでもできるからです。今のところ、お寺での座禅会や瞑想サークルのようなものにも参加する必要は私の場合は感じません。

 ちなみに私が実践している日常での精神修養をお話ししておきますと、それは、どこからともなくやってくる思考や湧いてくる感情も含めて自分の内外面で生じるすべてのことを鑑賞対象として見るというものです。真の実在は真我のみです。その真我が真の自己であることから、その認識のもと一切を一つの映画として捉えるやり方です。私の意識の根底には、真我の直接体験をした際の真我としての認識が常に離れることなくあります。真我と共にある感覚がいつもあるのです。その真我である私あるいは真我が根底にある私が、この体と精神活動を含めた現象世界の一切を鑑賞している状態なのです。それが私にとっての精神修養と言えるものです。以前のぎりぎりの精神状態で努力して精神を集中していた一頃とは違って、その精神修養が今では自然に出来ていることから既に修養と言えるほどのものでもなくなってきています。以前のぎりぎりの精神状態でいた時には、余計な思考を排除し自我を抑えて自分の内外面で起きることを客観視するには左上奥歯の歯ぐきから膿が出るくらいの歯根の炎症が何年も続くほどに昼も夜も、多分寝ている間も歯を食いしばっていました。奥歯の歯根の炎症が続いたことで、痛みから奥歯で噛むことができず物を食べるのが一苦労でした。その食いしばりのせいで両方の顎関節のところが変形してしまい、それ以上悪くならないようにマウスピースをするようにと歯医者から言われるほどでした。一時は歯医者から奥歯を抜く必要があるとも言われましたが歯を抜くのが嫌だったので寝るときだけでなく時には仕事をしている最中もマウスピースをはめて食いしばりで奥歯にだけ力が加わらないようにしていました。自分の精神活動も含めて全てを客体化する見方を習得するのは本当に苦行そのものです。その苦行の成果かどうかは分かりませんが今では自分の内外面で起こることを客観視して自然に眺めていられるようになり歯を食いしばるようなこともなくなって奥歯の歯根の炎症も治まってきました。その時々で濃淡はあるものの努力らしい努力をすることなく日常を映画として鑑賞することができています。

 私はまた、私は無いという気づきがあるまでは近くの神社仏閣の参拝も欠かすことがなく頻繁に神社やお寺に詣でていました。さらに仙台市内の地図を見て、まだ参拝していない神社やお寺を探し出し、どんなに小さなお社でも、手を合わせるためだけのためにわざわざ出かけていたりしていました。加えて、その際の参拝の仕方が悪く神仏の怒りを買いたくないとの気持ちから正しい参拝のやり方などが書かれた本を何冊も買い熱心に練習までしました。そこまでして神社仏閣をお参りし続けたのは純粋に神仏への信仰心からではなく、ご利益を目的としたもので何でもいいから少しでも得になるようなことを望んでの行動でした。その頃の私は神仏は自分の外側にあって人の行動次第で賞罰を与える存在だと思い込んでいました。

 多分、神社仏閣にお参りする人の多くは純粋な信仰心というよりも、多かれ少なかれ数年前の私のように神仏は自分の外側にあって人間の行動いかんによって罰を与えたりご褒美をくれたりする存在であるという勘違いから、ご利益目的で参拝をしているのではないかと思います。神様や仏様の目を意識して欠かさずお参りする人や善行をする人、おさい銭を多めに出す人は神様や仏様は人間によってコントロールができる存在であるという間違った認識をしている裏返しの行動ではないかと思います。皆さんに問いたいと思います。神や仏は参拝したりしなかったり、おさい銭が多かったり少なかったり、善行や悪行のある無しなどといった人間の行動でいちいち左右されるようなちっぽけな存在なのでしょうか。私がここで言う神仏とは天地万物を創造した創り主のことです。時間を超えたところにいる究極の絶対の不動の存在のことです。その天地万物の不動の創造主が広大な宇宙の片隅にある地球上の一人の人間の行動で左右される、或いは左右させることができると、どうして考えることができるのでしょうか。普通に考えれば、そんなことはあり得るはずがないと思うのではないでしょうか。そうは言っても私自身が数年前までは自分の行動で神仏を動かすことができると思い込んでいて、ご利益目的であちこちの神社仏閣にお詣りしていた人間の一人ですから、自分のことを棚に上げて人のことをいいの悪いのとは言えません。ただ、真理に気づいた人間の一人として神様や仏様とはどういう存在なのかということを問い直してもらいたいなと思うだけのことです。

 真我の直接体験をしていない人に私の言っていることの理解を求めても無理なことは分かっています。よって、神社仏閣へのご利益目的での参拝に行きたいという人の気持ちを否定するつもりはありません。ご利益目的で、神社仏閣に行きたい人はどんどん行けばいいと思います。参拝したことで、その人の心が晴れたり願いが叶った或いは叶わなかったと一喜一憂するのも真我が体験したい物語の一つですから、ご利益目的の参拝も大いに結構なことだと思います。しかし、悟りを得たいと思う人であるならば、決して人の行動で神仏をコントロールできるなどと思ってはいけないことを肝に銘じてもらいたいと思います。私たち人間を含めてこの世のあらゆる事象は何から何まで神仏によって決められています。頭の中にやってくる思考の一つ一つ、指一本の動きでさえも決められていることを理解しなければいけないと思います。

 私が無いという気づきは、人生に対し私という主体が元からなかったことに気づかせてくれます。そこから、さらに文字通り歯を食いしばって自我をおとなしくさせることに成功し深く探究をし続けることができれば、やがて真我にたどり着きます。探究者のやることはいたってシンプルです。自我をおとなしくさせることに尽きると思います。その手法として様々なやり方があると思います。その代表的な手法として挙げられるのが物欲を諦めることであったり、神仏への帰依であったり、心を静かにして仏典や経典、聖典を読むことであったり、瞑想や座禅をし一心に念仏を唱えることであったり、時には難行苦行といったものだと思います。それらの行為をすることで一つのことに集中し精神が統一されて、やがては自我がおとなしくなっていくのではないかと思います。ただ、それを行う注意点としては、それらの行為はあくまでも心を落ち着かせ自我をおとなしくさせていくことが目的ですから、行為自体を目的として行為に執着し自我が増大するようなことがあってはいけないと思います。

 なんにせよ、今の私はいかなる宗教団体にもかかわってはいません。今後もかかわることはないかもしれません。ただ生きている限り修行ですから体力的に持たないでしょうが仏道修行には興味はあります。いずれにせよ。それぞれの宗教団体には個性があります。私が過去かかわった宗教団体を例に挙げればプロテスタントの教会はアットホームな感じでしたし、エホバの証人の信者は世間で色々言われていることもあり信仰が強固な印象でした。生長の家の信者たちは引き寄せの法則を信じている以外は普通の人と何ら変わりがないと思いました。崇教真光は手かざしに特徴がありましたが教義内容は生長の家と大差はない感じで、教義の中に「富」が含まれているからなのかは分かりませんが信者の中に政治家や経営者などが多いと聞きました。それぞれに特徴があるので興味があるのでしたら行ってみるといいかもしれません。ただ、教団維持に必要なことですから、お布施や献金を求められたりするので、そこは承知の上で行かれるようにしていただきたいと思います。他にも数年前に他界した私の母はガチガチの創価学会員で私は幼い頃に訳も分からず入信させられたいわゆる宗教2世だったこともお話ししようと思っていますが、それについては別の機会にしようと思います。

 それでは今回は、ここまでとします。いずれまた、気が向いた時にその時が来たらお会いできるかもしれません。あなたである私に、そして私であるあなたに。その時が来るまで何とぞお元気でいて下さい。では、再会の時まで一時のさようならです。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 38

Trending Articles